「日本のレンガ史のルーツ」

取水口のレンガの大きさを調査する山岡文化財担当長

久慈水溜跡で現地指導
瀬戸内町 関連史跡の建設順判明

 瀬戸内町教育委員会は6日、同町久慈の佐世保海軍軍需部大島支庫(久慈水溜=みずため=)跡に、レンガの研究に詳しい大阪・岸和田市教育委員会の山岡邦章文化財担当長を招き、現地指導を行った。山岡文化財担当長はレンガの種類や大きさから「取水口、ろ水池、水溜の順に建設されたのでは」と推察した。

 同町は国庫補助で「瀬戸内町内の近代遺跡内容確認調査」を実施。明治期から終戦までの遺跡が町内に206カ所ある国内でも珍しい環境を生かし、遺跡分布などの調査を続けている。同水溜跡は先月12日から発掘が開始され、今月9日までを予定している。

 同水溜跡は日清戦争後の1895年に建造された赤レンガ構造物。久慈湾が軍事上の「要港」とされ、久慈には石炭庫と番舎、水溜などが建設された。

 山岡文化財担当長は同集落内の白糖工場跡(1867年完成)から発掘されたレンガと同水溜跡に使用されているレンガを調査。両史跡から発掘されたレンガは、幕末から明治初期に日本を訪れていたイギリスの技師・ウォートルスが同工場建設時に、日本人の手の大きさに合うよう改良したタイプのものだと指摘。「ウォートルスは白糖工場建設後、大阪の造幣局建設に携わる。久慈で改良されたレンガが、大阪で普及し、水溜建設時に大阪から運ばれてきた」とし、「日本のレンガ史のルーツは久慈。せっかくすごいものがあるのだから多くの人に知ってもらいたい」と話した。

 また、同水溜跡地に使用されているレンガが基部と建物部分で大きさが異なることに注目。水源から水溜に送水する間の取水口、ろ水池に使用されているレンガと調査し比較。ただ、基部のレンガと、ろ水池・取水口のレンガの大きさは同じだと判明した。「基部と建物部分でレンガの種類が異なることは珍しい。取水口、ろ水池、水溜の順に建設され、基部建設後、別の船便で種類の異なるレンガを運んだのでは」と考察する。

 同町教委の埋蔵文化財担当の鼎=かなえ=丈太郎さんは「新たな発見があり、ここが歴史の最先端だということが分かった。町内の近代遺跡から歴史に興味を持ってもらえれば」と語った。 鼎さんらは今後発掘を進め、建造に使用されたレンガの個数などを調査し、詳細を明らかにする予定だという。