対馬丸生存者が宇検村訪問

大島さん=右=の読み上げる集落誌の一節を聞く平良さん

救助者の大島さんと面会
慰霊碑建設予定地訪問も

 平洋戦争中に米国潜水艦の攻撃で沈没し、奄美に犠牲者や遭難者が漂着した学童疎開船「対馬丸」の生存者、平良啓子さん(81)=沖縄県大宜味村=が27日、遭難者を救助した宇検村宇検集落の大島安徳さん(88)を訪問した。宇検村枝手久島に漂着したという平良さんは、同集落で住民と共に救助活動をした大島さんに「情のある人が多くいたということを後世にまで語り継いでほしい」と語った。

対馬丸は1944年8月、沖縄から長崎に向かっている途中、悪石島沖で沈没。乗員1788人のうち1484人(氏名判明分)が犠牲になった。犠牲者や遭難者は瀬戸内町や宇検村、大和村に流れ着き、宇検村は犠牲者の多くが漂着した。

沖縄県国頭村出身の平良さんは乗船時9歳で、きょうだいらと共に船に乗った。6日間漂流し、枝手久島で救助され、宇検村久志で介抱を受け、その後軍によってほかの生存者と共に瀬戸内町の旅館に収容させられた。瀬戸内町では父の友人の下で半年間を過ごし、その後沖縄に戻った。52歳の頃、漂着以来初めて奄美を訪れ、枝手久島に向かうなどしており、過去を辿る目的などでこれまでに3回奄美を訪れていた。

大島さんは救助活動時19歳。大島さんによると、当時、集落の浜には遺体や遭難者が痛ましい姿で流れ着き、住民もお酒を飲んで気持ちを紛らわせながら救助したほどの凄惨な現場だったという。大島さんは犠牲者を弔うため89年から20年間、毎年8月16日に枝手久島沖で、花と自身がしたためた俳句をたむけていた。宇検村では当時の現場の悲惨さを知る数少ない人となっている。

95年に一度面識が合ったという平良さんと大島さんは、救助当時のことや村が海岸に来年度建立予定の慰霊碑などについて語り合った。大島さんは集落誌に救助当時の様子や平良さんのことが記載されていることを、本を読んで教えていた。平良さんは記念碑については「心の拠り所になる」と語っていた。

大島さんとの面会後、平良さんは「こうやって生きているのも救助してくれた人たちのおかげ。救助してくれたことを後世に伝えていってほしくて来た」と話した。

大島さんは「来るのが待ち遠しかった。平良さんと同じで平和への情熱は私も変わらない」と語った。

平良さんは娘の次子さん(53)や対馬丸記念館(沖縄県那覇市)の学芸員、宇根一磨さん、副村長らと共に大島さんを訪問。この日は慰霊碑建立予定地を訪れたほか、救助や介抱でお世話になった村民の墓参り、宇検村の村誌編集委員会と慰霊碑建立委員会との懇談も行った。きょう28日は枝手久島で平良さんを発見した村民(故人)の娘を訪問する。