野茶坊が日本相撲連盟から功労賞

「土俵での名さばきをする奄美出身の主審を育てたい」と熱く語る屋田敏弘さん=東京都町田市広袴の町田キャンパス寮務課応接室で=

国士舘大学寮務課課長 屋田 敏弘さん(60)龍郷町出身
奄美出身の審判員育成めざす 出会った恩師たちに感謝

 【東京】日本相撲連盟が選定する2015年度の相撲功労賞を龍郷町屋入出身の屋田敏弘さん(60)が受賞した。同賞はアマチュア相撲の普及発展に努めた人に贈られるもので、昨年12月6日、両国国技館で行われた全日本相撲選手権大会の開催とあわせ表彰式が行われた。屋田さんは国士舘大学相撲部の監督を長年務め、女子相撲部も創設。また全日本相撲連盟参与として日本全国、さらには海外も巡り、アマチュア相撲の普及発展に努めてきた。今後は「奄美出身の審判員の育成を」と意気込む屋田さんに話を聞いた。
(永二 優子)

 生活支えて農作業も

 国士舘大学の町田キャンパス。小田急線鶴川駅からスクールバスが往復する。そのバス停にほど近いキャンパス内に寮務課がある。寮生活する学生たちの支援、生活指導などを行うのが屋田さんの仕事だ。今年還暦を迎えたというが、恰幅のいい体格で現れた屋田さん、「中学校の頃から身長は全然伸びないのに、腹だけはどんどん出ちゃってねえ」と笑う。今回の受賞について「まさか、大先輩たちを差し置いて自分が受賞するなんて、ただただびっくりです」。ひたすら照れ、謙遜する一方で、亡くなった両親やこれまでに出会って助けてくれた人々に恩返しの受賞となったことを心から喜ぶ表情がうかがえた。

 屋田さんの幼い頃は、奄美の人たちが皆そうであったように貧乏そのものの生活だった。兄はノートを買うと、お金がかかると怒られるので、余白が真っ黒になるまで使っていた。兄と違って体格のいい屋田さんは、小さい頃から母親に「中学卒業したら農業を」と期待をかけられ、高価な卵を朝昼晩と食べさせてもらう毎日。農作業ではサトウキビを、笠利の港に行ってはセメントを担いで家族の生活を支えてきた。

 龍南中3年生になると、「川元先生」に見込まれて名瀬の柔道教室へ通うことに。血へどを吐くほど稽古をし、3カ月で初段をとった。地元の奉納相撲大会では同じ中学生は問題にせず、大人までも投げ飛ばした。勝つとお金や米、しょう油がもらえた。味を占めたわけではないが、親を楽にさせたいと、相撲推薦で当時の鹿児島商工高校へ。同期には若島津もいた。

 番長は退学寸前

 高校時代は寮生活。特待生とはいえ、練習は想像を絶するほど厳しく、親元を離れた寂しさとも相まって、つらさは我慢の限界を超えた。ただひたすら布団をかぶって泣く日々が続いた。そんな極限状態の中、生活は荒れる一方だった。すさんだ精神と若い肉体が暴発するまま、理由もないけんかに明け暮れた。「人様に迷惑だけはかけんでくれ」と嘆願した父親を何度も何度も裏切ってしまった。奄美から学校に謝罪に来た母親が肩を落とし、人目を避けて帰る姿を見た時は本当にこたえた。「二度とやるまい」と決意したが、空念仏に終わった。

 3年生の時には、たまたまけんかの規模が大きくなり、凶器準備集合罪に問われて、あわや退学の危機に。そんな屋田さんを「私に任せてくれ、責任は私が持つ」と職員会議で引き受けてくれたのが桜島出身の山下憲=たま=教諭だった。謹慎期間中、山下教諭の家に引き取られ、桜島のミカン畑の農作業を手伝った。ひたすら感謝と反省の日々だった。

 それでも卒業式は出席を許されず、山下教諭の指導のままに校長室前のどぶさらい作業をしていた。それやこれやの末、結局、卒業証書は、誰もいない学校の校長室で、年度明けの4月1日に受け取ることとなった。

 同級生の一言で目が覚めた

 大学進学が話題になると、母親と姉には泣いて「行かないでくれ」と懇願された。農業センターに行って勉強し、農家を継いでほしいと言われた。生活が変わらず苦しい中、2人の気持ちもよくわかったが、屋田さんには国士舘だけでなく他大学からも相撲での進学の誘いがいくつかあった。いずれも特待生だった。気持ちが動かないはずはなかった。「1年間でいいから行かしてくれ」と頼みこみ、国士舘大学へ進むことになった。

 当時の国士舘大学は暴力大学と騒がれていた。親だけでなく伯父である重山清知郎さんも心配を隠せず、上京して会いに来た甥の屋田さんに「詰襟を脱いで、こっちへ来い」と、屋田さんがその出で立ちから醸し出す暴力体質を叱責したという。

 そんな相も変わらず「元気もんしていた」屋田さんだったが、2年生の時に同級生で生きのいい内藤陸上部部長が話しかけてきた。「屋田、人の上に立とうと思ったら下から頭下げんといかん。下から下から」。随分と唐突ではあったが、まるで魔法の言葉だった。以来、自分でも不思議なほど、頭を下げ始めていた。すると、人生が変わったようにみんながついてきてくれるようになった。驚いた。

 そんな自分を温かく見守ってくれていたのだろう、父親の態度も大きく変わってきていた。「財産使っていいから、気張って卒業しろ。一生懸命やれば何か見つかる」。そう言ってくれた。本当にありがたかった。感謝の思いを表すには、身を助けてくれた相撲に精進するしかなかった。卒業後は同大学の格技研究室に請われるまま職員に。以後、大学の職員をしながら、休みの日にはアマチュア相撲の普及委員や広報委員を務め、全国各地だけでなく海外も飛び回った。

 そんな屋田さん、本人は口が裂けても言わないことがある。アマチュア相撲での行司ぶりだ。その威厳に満ちたさばきの的確さと、きびきびした所作は玄人目にも圧巻で、現役時代にはアマチュア界の木村庄之助(大相撲界の行司の最高峰)といわれるほどの名審判だったのだ。

 「悪さを続けた俺がこんなにいい人生を送れるなんて本当にありがたい。出会った人たちのおかげです。ただただ感謝するばかりです」。今後は東京オリンピックの年に行われる鹿児島国体で「奄美出身の相撲審判員を育てていきたいですね」と抱負を語った。亡くなった両親もさぞかし草葉の陰で、きっと喜んでいることだろう。
 プロフィール
(おくだ・としひろ) 1956年生まれ。龍郷町屋入出身。龍南中、鹿児島商工高校(現在の樟南高校)から国士舘大学体育学部卒業。同大学相撲部コーチを経て、1984年から昨年まで相撲部監督。
 現在、公益財団法人日本相撲連盟参与、日本学生相撲連盟副会長、国際相撲連盟審判副委員長