奄美・沖縄諸島 先史学の最前線②

喜界島では、近年中世のお墓が数多く発掘され、状態の良い人骨が多数出土している。これらは、この地域の集団の歴史を知るための重要なデータを提供する。写真は川寺遺跡出土の人骨(提供=竹中正巳博士)

DNAが教える奄美・沖縄の歴史
篠田 謙一(国立科学博物館人類研究部)

 人類学者は日本人の成立をどのように考えているのだろうか。現在では、縄文時代には日本列島全域に似たような姿形をした縄文人が住んでいたが、続く弥生時代になると北部九州に大陸から水田稲作を持った人々が渡来して、歴史時代を通じて両者の混血が進んだ結果、本州を中心とした地域には弥生人の影響が強い人々が、稲作が入らなかった北海道や、遅れて入った琉球列島には、在来の縄文人の遺伝的な影響の強い人々が住むことになったという、いわゆる二重構造説が定説になっている。

 たしかに、奄美や沖縄の人たちの中には、北海道のアイヌの人たちに似た容姿の人もいる。どちらも縄文人の遺伝的な影響が強い人だと考えると納得できる。しかし南北三千㌔に渡って広がり、気候も風土も異なる日本列島の集団の形成がこのような単純な見方で説明できるのだろうか。

 奄美の人たちの成り立ちは、人類学の分野では琉球列島集団の成立の一部として語られる。近年沖縄では二万年以上前の旧石器時代の人骨の出土が相次いでいる。本州や北海道ではこれだけ古い時代の人骨は出土していないので、日本でこの時代から人類の足跡をたどることができるのは琉球列島だけである。私たちはこの地域での集団の形成過程を明らかにする目的で、出土した人骨のDNA分析を行っている。まだ解析した個体数がそれ程多くないので確定的な結論を得ることはできていないが、それでも二重構造説では説明できない興味深い事実も浮かび上がってきた。

 一般には、琉球列島に本格的な農耕が入るのは、貝塚時代の終わりからグスク時代の初めにかけての時期に相当する一〇世紀以降になってからだと考えられている。ちなみに奄美ではそれより一世紀ほど先行するので、九州から農耕民がやってきたと考えると、この時代的な違いは説明が付く。

 沖縄では農耕が入る前の弥生時代や平安時代(貝塚時代後期)に相当する遺跡から、現代の沖縄の人たちに通じるDNAが検出されている。その中には、弥生時代に日本列島に入ってきたと思われるタイプも見られる。この時代にすでに本土日本と共通のDNAが存在するのは、弥生時代以降の列島集団の成立が、二重構造説が考える農耕民の拡散という要因だけで語ることができないことを示しているのだろう。海で隔てられた沖縄と本土の間には、貝塚時代から交易が行われていたことが知られている。奄美を含む琉球列島集団の成立には、各時代の交易が大きく関与している可能性がある。

 最近、喜界島で中世の人骨が大量に発見されている(写真)。琉球列島に農耕を伝えたのは誰なのかはいまだ不明だが、この喜界島の人骨は、その候補を探る上で重要な意味を持っている。私たちの研究室では現在そのDNA分析を進めており、本土の日本人とも沖縄の現代人とも異なっている、集団の遺伝的な特徴が明らかになりつつある。このことが何を意味しているのか。その問に答えることは、奄美や沖縄の人たちの成り立ちを知ることにつながっている。私たちはこの分析をすすめて、数年のうちに奄美・沖縄集団の形成の新たなシナリオを提示することを目標としている。