保岡興治元法相が死去

奄美振興、司法制度改革など尽力

 自民党の元衆院議員で元法務大臣の保岡興治氏が19日夜、すい臓がんのため都内の日本医科大学付属病院で死去した。79歳だった。保岡氏は宇検村名柄の出身で、衆院議員に旧奄美群島区や鹿児島1区から立候補し、13回の当選を重ねた。法務大臣に2度就任し、法相退任後は司法制度改革などに尽力。裁判員制度の創設や法科大学院制度を推進した。奄美群島振興開発特別措置法の延長・改正、党の奄美振興特別委員会の特別顧問として奄美の振興に注力した。喪主は妻の芳枝さん。通夜・告別式は鹿児島市大竜町10―2の吉田葬祭典礼会館で実施する。日程は▽通夜=23日午後6時▽葬儀告別式=24日午前11時。

 保岡氏は鹿児島地裁裁判官、弁護士を経て、父・武久氏の後継で1972年に衆議院の旧奄美群島区で初当選。同選挙区で徳田虎雄元衆院議員と「保徳戦争」と呼ばれる激しい選挙を繰り広げた。

 2000年7月に第2次森内閣で法相として初入閣。法相退任後に党の司法制度調査会最高顧問に就任するなど、司法制度改革に関して「裁判員制度」の導入にも尽力した。

 鹿児島1区を合わせ通算13回の当選を果たしたが、すい臓がんの治療に専念するため17年の衆院選の公示直前に出馬を取りやめ引退した。

 宇検村は保岡氏を奄美群島の振興発展やサトウキビ価格安定実現、交通基盤の整備と住民の福祉向上などに貢献したとして、00年に名誉村民に選定。今年2月には保岡氏の旭日大綬章受章祝賀会が奄美市内で開かれ、大勢が参加し保岡氏の受章を喜び功績が称えられたのが最後の奄美入りとなった。

 保岡氏の事務所によると、今年3月に体調を崩して同病院に入院し、19日午後6時44分に亡くなったという。