神戸奄美会・中井会長インタビュー

神戸と故郷の絆を担う神戸奄美会・中井和久会長=5月にあった「地域振興展」で

若手との交流で人材発掘

 【東京】2世3世を含め約6万人の島関係者が暮らしているといわれる関西地区。そんな中で、神戸奄美会は郷友会では珍しい独自で会館を運営し、故郷と奄美の架け橋を担っている。このほど開催された「第回神戸まつり」にも回目の参加を果たした同会を率いるのが、中井和久さんだ。発足以来初となる2度目の会長を務めることになった中井さんに、話を伺った。(聞き手=東京支局・高田賢一)

 島との関わりは、どんなきっかけがあったのですか。

 「名瀬の高校を卒業、福岡の大学(北九州市立大学)へ進学し、そして神戸新聞に入社し、兵庫へ。間に福岡での学生生活があったので、奄美との縁は切れたと思っていました。ところが聞いてはいましたが神戸、阪神間には奄美ゆかりの人たちが何と多いこと。事件、事故の多い地域ですが、取材の先々で奄美関係者と遭遇したのです」

 やがて阪神淡路大震災を体験、どんな状況でしたか。

 「いやあ、あれはつらかった。奄美出身者も多くの犠牲者を出しました。神戸新聞も社屋が大きな被害を受け企業は死に体。そんな状態で、社会部副部長として対応。40人の社会部に加えて各部から合わせて100人体制で避難所を取材したのです」

 どんなところに気を配りましたか。

 「各社が入れ替わり立ち替わりで記者を派遣してくる中で、うちは、同じ記者を同じ避難所に置いたのです。同じ質問をしないようにしたのです。精神的肉体的に参っているところに、何度も同じことを聞かれる身になったのです。我々も被災者でしたから、彼らに寄り添っていくのが大事だと考えたのです。いいことを何度も聞かれるのとは違いますからね」

 大変な環境下で、細かい気遣いがあったのですね。

 「神戸新聞はつぶれるなんていう、デマやうわさを取材の先々で聞いたりしました。確かに大変厳しい状態でしたが、倒産する様子は全くなかった。どうもある大手が、どさくさに紛れて部数の増大を狙っていたようです。商魂たくましいというか、文屋としての心を疑ってしまいましたね。被災者に『あんたのところ大丈夫かね』と聞かれたとの報告を受けるたびに、絶対に負けへんで、すっとごれ!と気合いを入れ直したものです。真っ先に奄美関係者の安否を確かなければ、との思いもありましたが、壮絶ながれきの中での奮闘でしたから、かないませんでした。京都新聞さんの協力で、その日の夕刊が出たのが午後8時。みんなで分け合って配りましたね」

 これからの課題を挙げてください。

 「どこの郷友会も直面していることでしょうが、若い力を注入していくことですね。現在、60代半ばの人たちが中心となっている。これを何とか若返りさせたいが、具現化に至っていないのが現状。2世3世が増えるに従い故郷への思いも希薄になっています。彼らを巻き込んでいくためにも、鉄人広場で開催する『地域振興展』と、このほどあった『神戸まつり』この二つを柱に、若手との交流をさらに続けて、神戸奄美会を支えていくような人材発掘をしていくことだと考えております。そのためには、各郷友会との連携も大切ですね」

 任期は来年の秋までですが、会長として最も気を付けることは何ですか。

 「会長はあくまで調整役だと思っています。幹事会でも場を紛糾させないことが第一優先。最終目的は会員みんなが楽しんでもらうためだから、調整型でいいのです。体を張って闘うのは、文屋時代で卒業しました(笑い)」

メモ

 中井和久(なかい・かずひさ)1946(昭和21)年生まれ。(昭和45)年、神戸新聞社入社。社会部で警察担当。その後、東京支社で国会、中央省庁などの取材に当たったのち本社に県警キャップとして戻る。メディア開発局局次長兼企画部長を経て、神戸新聞阪神総局長に。2013年に続いて18年に神戸奄美会会長に就任。中国語と川柳、カラオケ、テニス、ボクシングが趣味。テニスは地域の大会で2年連続優勝の腕前。息子が二人。垂水区で夫人と暮らしている。