奄美豪雨災害10年 あの日の記憶=下=

豪雨災害後、整備された奄美市住用国民健康保険診療所で地域医療に従事する野﨑医師

地域医療、連携が不可欠

 奄美豪雨災害時、奄美市住用町西仲間の市住用国民健康保険診療所は、1階建ての建物の大部分が水没、医療機器や設備など、ほとんどが被害を受けた。当時から同診療所の所長として勤務していた野﨑義弘医師(59)は、避難所となった奄美体験交流館に開設された臨時の診療所で、災害翌日から不眠不休で避難者らを診察。診療所の開設や運営には大島郡医師会など島内の医療機関の支援があった。それまで、へき地医療に携わる医師として、孤軍奮闘してきた野﨑医師は、「豪雨災害で、地域医療には、医療機関の連携が不可欠」と実感したという。

 2010年10月20日、診療所でいつものように診察をしていた野﨑医師。午前9時過ぎ、雨脚が強まり、たたきつけるような激しい雨に気付き診察を中断した。診療所にいた高齢患者らを早急に自宅に返すことにしたが、その間も雨はさらに激しさを増していった。

 午前11時ごろには診療所内も浸水。身の危険を感じ、電子カルテのデータが入ったノートパソコンと往診バッグ、AEDなど必要最小限の道具を手に、看護師ら5人と一緒に国道58号を隔てて建つ市役所住用総合支所に向かった。道路は冠水し、川のようになっていた。濁流が腰付近まで押し寄せる中、ホースをロープ代わりにして、道路向かいの支所にたどり着いた。「自宅も水没し、着の身着のままで逃げた。命の危険を感じるほどだった」と、当時の恐怖を語った。

 診療所内の多くの機材や資料が浸水被害にあったが、パソコンに保存された住民らの電子カルテのおかげで、翌日から避難所で、診察を開始することができたという。避難住民の中には、定期的に診察していた高齢者も多く「カルテを見ながら処方箋を出したり、入院が必要な患者は、市内の総合病院に搬送した。野﨑医師は当時を振り返りながら、「あの時ほど、医師の連携の重要性を感じたことはなかった。一人で地域を支えるのではなく、様々な医療機関が連携し、役割分担することでより良い医療サービスの提供につながることを痛感した」と語った。

 奄美体験交流館には最大365人が避難、1カ月以上という過去に経験したことのない、長期にわたる避難生活が始まった。当時は、プライバシー保護のための仕切り(パーテーション)や段ボールベッドなどはなく、避難者は硬く冷たい床にござやビニールシートなどを敷いて生活した。

 現在の避難所の在り方と比べると、かなり不便な生活を強いられたことがうかがえるが、野﨑医師によると、「避難者の多くは、普段から地域コミュニティーの中で交流を持っていたこともあり、それほど不平不満を口にする人はいなかった」という。

 一方で、避難所の運営に当たった市職員らについては、「避難所の衛生管理や高齢者の体調管理など、通常業務にはない仕事を抱え、かなりストレスを感じているようだった」と話し、「大規模災害時には、支援する側、される側という考えではなく、みんなで支え合って避難所を運営する仕組みが必要」と指摘した。

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 2015年、同診療所は住用総合支所に併設するかたちで、2階部分に整備され、防災機能を強化。豪雨災害後にレントゲンなどの医療機器も更新された。10年前と比べ、医療環境も大きく改善された。ただ、「いつまた、奄美豪雨のような大規模災害が発生するか分からない。平時から万が一に備え、準備する必要がある」。野﨑医師は、豪雨災害の教訓から、地域の医療機関との連携を重視、積極的に情報交換などを行うようになった。現在、群島各地の医療機関と連携し、在宅医療のネットワークづくりにも力を入れている。

 限られた医療資源の中で、大規模災害に対処した豪雨災害時の教訓は、新型コロナウイルスの影響で、医療機関の負担が大きくなっていくなか、学ぶものも多いように感じた。