57年前の東京五輪に役員参加 奄美市名瀬在住の森田紘一さん

1964年に開催された東京オリンピックの射撃、近代五種(射撃)の競技役員として参加し、審判を務めた森田紘一さん。当時着用した青色のブレザー、感謝状などを大切に保管

射撃、近代五種(射撃)競技の審判務める
「ブレザー、感謝状、標的は〝宝物〟」

57年前の1964(昭和39)年に開催された「東京オリンピック」(東京五輪、第18回オリンピック競技大会)の射撃、近代五種(射撃)の競技役員として参加し、審判を務めた人がいる。奄美市名瀬大熊町在住の森田紘一さん(78)=大和村今里出身=がその人。森田さんは、当時、役員が着用していた青色のブレザー、感謝状、「ライフル50㍍標的」などを大事に保管してきた。「私にとってブレザーなど当時の物は〝宝物〟。あの時代は人生の〝花〟の時代」と語った。

千葉工業大学1年生だった19歳の時に射撃部に所属し、射撃歴57年を数える。

東京オリンピックは64年10月10日~24日の日程で開催された。森田さんによると、東京オリンピックに射撃と近代五種(射撃)の競技役員として参加し、審判を務めたのは、22歳の大学3年生の時だった。開催会場は、埼玉県の自衛隊朝霞駐屯地内にある朝霞射撃場(北足立郡朝霞町、現在の朝霞市)。

役員は、選手の後方に立ち審判。選手は、ラピッドファイアピストルを使用。25㍍先に標的が五つあり、標的が表に現れたり、裏に隠れたりするという。4秒間に5発、6秒間に5発、8秒間に5発と計15発を発射し、それを午前中は2回計30発を発射。午後にも30発を発射し、計60発の合計点を競う。「審判は選手の後ろに立ち、5発ずつ打ったかを確認した」(森田さん)。

森田さんの名前が記された「第18回オリンピック競技大会」感謝状には「オリンピック競技大会によせられたあなたの献身的な協力に対し深く感謝の意を表します」と書かれており、日本語、フランス語、英語で記入されている。

役員が着用した青色のブレザーのボタンには、「日の丸、五輪マーク」があしらってある。

「57年前のオリンピック当時のことをいろいろと思い出す。生きている間に日本で2回のオリンピックが開催されるとは思わなかった」などと感慨深げに話した。
    ◇
森田さんは、国民体育大会のライフル射撃競技に、選手として14回、監督・競技役員として17回、合計31回出場した。

2013年に日本体育協会から国体30回出場功労で会長表彰を受けた。表彰を受けた第68回国民体育大会役員懇談会は、東京都内のホテルで開かれ、会には当時の天皇・皇后両陛下が出席し、森田さんは、皇后陛下からお声を掛けられたという。「言葉を交わし、大変光栄だった。死んでもいいと思った」と振り返った。

森田さんは、74年の茨城国体では、ライフル射撃で民間人最高の5位入賞を果たした。

中学校の教師、校長を務め、奄美にも教え子が多い。現在は名瀬公民館の指定管理者であるNPO法人アマミーナの生涯学習指導員を務める。