4年生の時に親友の伊勢幸との連弾で、発表会に臨む城南海(手前)=福崎郁代提供
奄美市小宿の福崎音楽教室で、幾度となく練習を重ねて、鹿児島の音楽コンクールで賞に輝くなどした城南海。「ピアノの教師か、保母さんになりたい」と将来の設計図を描き音楽科のある鹿児島の県立松陽高校へ進学する。だが、夢への道のりは平たんではなかった。
奄美大島から中学1年で徳之島へ、さらに鹿児島市内に家族が移ったのは中学2年のことだった。それまでと比べれば、大都会である。当初大喜びだった南海だが、文化の違いに戸惑う。島では、「にいちゃん」「ねえちゃん」と年上に敬意と親しみを込めて呼ぶが、それが全く通じない。「あんたのねえちゃんじゃないし、兄弟じゃないよ」などと否定された。そのためか、「特に目立っていたことはありませんでしたが、とてもまじめで成績も学年トップクラスだったので、優秀な生徒だった」が、クラス担任・増森健一郎の印象だった。明るい性格だが、自然と口数は減っていった。父親の泰夫は、クラシックのCD全集を買い与えたりしたが、南海が口ずさんでいたのは、ほとんどがJポップ。「子供の頃、鹿児島のピアノコンクールでグランプリを獲ったこともあり、将来は漠然と音楽の道に進むのかな」と感じていた父親は、奄美との言葉の違いに「怖くて学校に行けなかった」という、娘の変化に気が付いていたに違いない。
そうした前に進めない、暗い道を照らしてくれたのも、やはり音楽だった。兄のいる市内の奄美料理店を訪れてウタアシビをした。奄美の四季、教室での指導や仲間たちを思い出しながら、鍵盤に向かい自らを奮い立たせた。やがて、6月に行われた文化祭で、南海のクラスは出し物として合唱をすることに。そこには、それまでの彼女には想像もできない姿があった。増森は、「指揮者に立候補して驚きました。経験がないのに、なぜと思いましたね。ですが、人前で音楽をすることに関しては、いろいろな場面でとても積極的だった」。前向きな本来の南海がよみがえったのだ。「音楽の母」と南海が慕うピアノの師匠・福崎郁代は、「音楽に対して、その時、その時を一生懸命に取り組む姿勢には頭が下がる思いでした」と語っている。「ピアノの教師、保母さん以外でなりたい職業はありましたか」と、インタビューの中で聞いたことがある。「看護婦さんですね。でも、当たり前ですが、たくさん血を見るって分かってあきらめました(笑い)」。色は赤が好きな彼女だが、血が大の苦手だったことにファンは感謝するべきだろう。「あなたに逢えてよかった」と。
(高田賢一)=敬称略・毎週末掲載