国体は必要か、考える契機に

昨年5月、「かごしま国体」で奄美市で開催される相撲競技のカウントボードを除幕する朝山市長ら

延期?中止?「無駄にしないため何をするか」
緊急提言

 今年鹿児島で開催予定だった第75回国民体育大会、第20回全国障害者スポーツ大会の開催可否で県内が揺れている。11日の県議会で三反園訓知事が年内開催を断念したと報じられた。東京五輪をはじめインターハイ、甲子園など大規模スポーツ大会が中止、延期となっている中、今年中の開催を断念せざるを得ないというのは妥当な判断だろう。今後の焦点は「延期」もしくは「中止」をどう判断するかということになる。鹿児島としては五輪同様1年延期を主張するが、すでに開催が決まっている1年後の三重、2年後の栃木など24年までの開催4県が足並みそろえて鹿児島の1年延期に待ったをかけているという。国体が一スポーツの大会を超えた政治案件となってきた。

 ▽国体とは何か?

 一連の騒動を見ながら、何か大事な視点が欠落しているような隔靴掻痒感を覚えた。「国体」とはそもそも何であり「なぜ必要なのか?」など根本的な問題を議論する必要があるのではないか?
 ためしに屋仁川あたりで道を歩く人に聞いてみるといい。「国体とは何かご存じですか?」「昨年の国体開催権がどこで、鹿児島の順位が何位だった知ってますか?」…ちゃんと答えられる一般県民がどれぐらいいるだろうか? ちなみに昨年の開催県は茨城で鹿児島は天皇杯(男女総合)15位、皇后杯(女子総合)12位だった。
 昨夏の甲子園の鹿児島代表が神村学園であり、初戦で佐賀北に勝って高岡商に敗れたことを覚えている人の方が多いのではないか?

 改めて「国体」について基礎的な知識を整理してみよう。
 第1回大会が開催されたのは戦後間もない1946年の京都大会。以後、各県持ち回りで開催され、鹿児島では72年に「太陽国体」が開催された。陸上、バスケットボール、サッカー、柔道、剣道など様々な種目が実施される。少年、成年男女のカテゴリーがあり、都道府県単位でチームを編成し頂点を競う。8位入賞以上に得点が与えられ、合計得点で天皇杯、皇后杯を競う。

 戦後の混乱期にスポーツで日本を復興させようと始まり、国体が開催されることで陸上競技場、体育館などスポーツに必要なインフラが全国各地で整備された。鹿児島も今の鴨池運動公園などの施設が整備されたのが72年前後の頃だ。インフラ整備だけでなく、開催地となった競技が町の伝統となったところもある。県内では樋脇が「ホッケーの町」川内が「バスケットの町」隼人や国分が「ハンドボールの町」と言われているのはその名残である。

 ▽国体の抱える問題点

 全47都道府県一巡するまで国体には大きな意義があった。ところが2巡目に入ると、開催県にかかる莫大な費用が大きな負担となるなど様々な問題が出てきた。開催県優位の組み合わせや国体から国体と渡り歩く「ジプシー選手」がいるなど開催県が優勝するための「からくり」があった。

 スポーツに対する考え方も変化し、今国体を純然たる「日本一」を決める大会と位置付けるチーム、選手は少ない。高校生にとっては国体よりインターハイの方が大事な大会だ。サッカーは正月の全国選手権、バスケットはウインターカップ、バレーボールは春高、ラグビーは花園…国体より大事にしている大会がある。成年でも日本選手権などの全国大会、サッカー、バスケットボールはプロという世界があり、そちらの方が一般の人たちの関心が高い。

 国体は「国内最大のスポーツの祭典」と称される。確かに全都道府県から選手、役員、応援なども含めれば、万単位の人の移動がある大イベントである。鹿児島国体で600億円の経済効果があるという。ただ「国内最大」と称する割に一般の人の興味関心をひかないのは以上述べたような理由である。

 ▽開催返上の提案

 話題を鹿児島国体に戻す。鹿児島としては1年延期を要望しているが、後催県との兼ね合いも考えれば至難の業だ。そもそも1年後、コロナの影響が終息し、無事大会ができる保証はどこにもない。内々定も出ていない5年、10年先に持っていくのはゼロからやり直すことと同じであり、「選手強化などこれまでの準備が無駄になる」という声もある。どちらにしても痛手であるなら、発想を変えて、国体開催を返上(中止)するという判断もあっていいのではないか?

 少年種目などで長年にわたって強化してきた選手たちの「晴れ舞台」が地元で見られないのは確かに辛い。気持ちはよく分かる。しかし国体が中高生にとって「最終目標」でないことは前述した通りである。鹿児島で戦えなかった悔しさを大学、社会人で競技を続ける、あるいはまったく別の進路でいかせばいい。

 鴨池運動公園などの施設改修が進んでいる。これは地元でスポーツする人たちがもっと積極的に活用して有効利用を考えよう。白波スタジアムは鹿児島ユナイテッドFCのホームグラウンド、県体育館や鹿児島アリーナでは鹿児島レブナイズがホームゲームをする。別にプロの試合でなくても、整備された各地のスポーツ施設は、コロナの影響が収まるにしたがって上手に有効活用して人が集まるイベントを開けば、国体のために各自治体で準備してきたおもてなしなどは十分生かすことができる。

 宿泊施設やバス会社など国体がある「経済効果」を期待した業者をどうするか。国体云々に関係なく、既に大きな打撃を受けている上にさらなる打撃を与えることは避けたい。であれば開催を返上する代わりに国からお金を引っ張ってくるぐらいのことを知事がやればいいのではないか。国の補正予算で10兆円の予備費が計上された。三重や栃木、後催県のために涙をのんで開催を返上し、見返りに得られなかった経済効果分600億円の予算を獲得すれば「名宰相」としてもてはやされること間違いなし! 損して得取れという発想だ。三重や栃木の人たちから「さすが明治維新を成し遂げた鹿児島!」と称えられることだろう。

 「マイナー競技にとって痛手」という指摘もある。そもそもスポーツを「メジャー」「マイナー」で区分けすること自体がナンセンスだ。これは国体があって「県のために頑張る」という大義名分があって強化費など「公のお金」が出ることに起因するものと思われる。
スポーツが自立できず、国体の存在に紐づけされている構造自体に目を向ける必要があるだろう。発想を変えれば、「国体のため」にお金を出すのではなく「幅広い競技の普及、育成、競技力向上が県民の健全で健康な生活に資する」として、県が今までと同等、あるいは今まで以上に力を入れるようにすれば簡単に解決する。

 いずれにしてもこれまで続いてきた国体が途切れようとしている今、「国体とは何か?」というところまでさかのぼって考える必要があるのではないか? スポーツジャーナリストの二宮清純氏は「国体というのは、日本のスポーツ界に蔓延している『不作為の病』を象徴するものである」と04年の著書『勝者の組織改革』(PHP新書)で主張する。

 根本の意義を問いかけることなく、前例踏襲で続けてきた「歪み」が今年の鹿児島で表面化した。「国体とは何か?」「何のためにやっているのか?」「続けるとしたらどんな意義があり、どんな方法が考えられるのか?」…その問題提起を鹿児島から発していこう。鹿児島国体はあってもなくても、県民に、日本人にとってスポーツの在り方を見直すきっかけにしたい。これまでの準備が「無駄になる」と嘆くのではなく「無駄にしないために何をするか」を考えたい。

     (政純一郎)