コロナ禍・奄美のために出来ること=⑦=

2月に黒龍与野店で行われた、埼玉奄美会役員懇親会(前列右端が藤井さん)

コロナとの共存も覚悟しながら、奄美と埼玉の架け橋に
奄美群島日本復帰記念大会で大奮闘。出身地に胸を張る

 奄美への思いと、登場人物を紹介しながら次の人にバトンをつなぐ「奄美のためにできること。新型コロナウイルスと私は戦う!」の第7回。関東天城町会会長・里村哲正さんからの紹介で、埼玉奄美会会長・藤井壮望さんが登場する。
      (東京支局・高田賢一)

 出身地を訊ねられ、気後れするも心の中で胸を張る。

 「上京当初、出身地を聞かれると、鹿児島出身と答えたものの胸を張って『奄美出身』と言えませんでした。隠す必要もありませんでしたが、自身の中で臆したことは間違いないですね(苦笑い)。現代とは、隔世の感がありますね。当時、島を思い出した時には、小中学校の同級生に会うか島料理の居酒屋に行き、シマ唄を聴きながら黒糖焼酎を酌み交わしたものです」

 東京奄美会100周年記念大会、奄美群島復帰周年記念大会などで活躍。

 「誇りをもって奄美出身者と言えるようになったきっかけは、平成10年に東京国際フォーラムで5千人を動員し開催された東京奄美会100周年記念大会。実行委員長は天城町出身の盛山文夫幹事長でした。熱気を目の当たりにしたことで、郷友会(島さばくり)に関わることになるのです。やがて盛山先輩に公私にわたって教導を受けました。後年、奄美群島日本復帰50周年では企画委員長、60周年では幹事長として参加しました。当時の感激、また故郷への感謝と誇りは、今も鮮明にまぶたに焼き付いております」

 埼玉と奄美の架け橋として奔走も、コロナ禍でさまざまな影響を受ける。

 「埼玉奄美会の会長を仰せつかっておりますが、残念ながら9月の総会は中止です。昨年(第44回総会)は、大野元裕埼玉県知事を来賓に招きました。中央大学で『刑事政策』を講じておりますが、当分オンライン授業ですね。休業当初は、さすがに不規則な毎日でした。今は、来るべき日に備え一万歩の散策などで体力維持と資料整理に追われております」

 奄美の首長らの行動を評価。コロナとの共存も覚悟。

 「東京奄美会にはなくてはならない、朝山毅市長を筆頭に首長らによる『来島自粛』の呼び掛けは、苦渋なことながら懸命な措置だったと思われます。コロナ禍の終息は見えず、どうやら終息させながらコロナとの共存、大きな社会の変革が求められるでしょう。そのなかでも、奄美と埼玉の文化交流に尽力していきたいと考えております」

 『長幼の序を常に念頭に置くこと、そして若い層を大切にしつなぐこと』と郷土の発展の礎を語る、藤井さん。次回バトンを受けるのは、東京瀬戸内会会長の山田幸一郎さん。

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 藤井壮望(ふじい・そうぼう)1952(昭和27)年11月27日天城町松原生まれ。昭和47年鹿児島市内の高校を卒業し、受験のため上京。一浪して中央大学法学部へ。入学と同時に、学生寮に入寮、4年間小平市鷹の台で生活する。平成16年から同大学の講師に。埼玉奄美会会長。