「ワイド節誕生35周年」記念コンサートに出演したときの坪山豊さん=2012年12月9日、徳之島町文化会館
坪山さんが亡くなった。長い闘病生活が続いていたので覚悟はしていたが、実際に逝去の報を聞いたときは、「また奄美の宝が失われた」と、とても寂しくなった。
坪山さんとのお付き合い初めは、私が名瀬のセントラル楽器に勤めていて、主に島唄レコードの制作に関係していた頃である。実際の島唄大会を録音して、それをそっくりレコード化しようという計画が持ち上がり、それに唄者としては、全く無名の坪山さんに出場いただこうとしたのだ。「自分は唄者ではない」と強く言い張る氏を説得して、全九人の出場者の一人となった。一九七二年のことだ。
このレコードを聞いて、坪山さんの声を地底から湧き出るような声と形容する人もいて、たちまち坪山ファンが生まれた。第一、私の雇用主であった、当時の指宿良彦社長がとても気に入って、正に坪山さんの唄者としての将来は保証された感があった。
やがて島唄のスタンダード的存在になって奄美島唄会の空気は、坪山豊の時代になった。
坪山さんには、教室を開いているという意識はほとんどなかったと思うが、坪山さんの自宅には、子どもから、かなり年配の人までよく人が集まっていた。私も研究者のはしくれとしてよくお邪魔したが、主はいなくともいつも誰かが歌っていたという印象がある。
ある時、私は遠慮なく坪山さんの島唄の基本的な指導法を聞いたことがあった。結果は、節まわしの基本は当然教えるが、本人の好みは大切にしなければならないと言われた。とにかくご自身が、唄の節まわしを四六時中考えている人であったから、一つの決まり切った節を人に押しつける気はなかったようだ。
かの民謡日本一となった築地俊造さんも、弟子として坪山さんの元に通った時期がある。
日本一になったときの記者会見で「私は日本一になったが奄美一ではない」と言ったというが、本当の奄美一の唄者は坪山さんのことだった、と私は信じている。
ところで、坪山さんも築地さんも、こんなに有名でありながら、私達、奄美を研究するグループにも、手弁当で随分協力下さった。
例えば、今は亡き詩人の藤井令一さんが中心となり、ギリギリの年末に「島唄を超える会」という誰にも分からない趣旨の唄遊びを発案してくれた。何年続いただろう。ともかくこの会には、坪山、築地の大御所が共に会費払って出席してくれたものである。
坪山さんありがとうございました。ご冥福心よりお祈りいたします。
(奄美民謡研究家、鹿児島純心女子短期大学名誉教授、小川学夫)