奄美への思いと、登場人物を紹介しながら次の人にバトンをつなぐ「奄美のためにできること。新型コロナウイルスと私は戦う!」の第9回。東京瀬戸内会会長・山田幸一郎さんからの紹介で、新極真会代表の緑健児さんが登場する前編をおくる。(東京支局・高田賢一)
逆境こそ大きく変われる機会。武道家の真価が問われる。
「国難であり、緊急事態。ですが、私たちはこういう時のために心と体を鍛えている。武道家としてこの逆境を、チャンスに変えていくと強く言いたい。今回、5月に開催予定だった第1回フルコンタクト世界大会も延期、それ以外にいろんな地区大会もなくなり本当に大変でしたが、ポジティブに捉え乗り切っています。日本に限らず、世界各地で当たり前に稽古できることが幸せだったと誰もが痛感したことでしょう。今までと違う生活なのだということを、空手を通じてしっかりと教えていくことが求められます。フルコンタクト空手で強くなればなるほど、人には優しくなれるのです」
「空手バカ一代」に憧れて上京。誰よりも強くなりたいと誓った幼少期。
「小学校時代に『空手バカ一代』を読み、中学生になると、通信販売で手にした道着を着て自己流で稽古に励みました。小さかったからこそ、大きい奴には絶対に負けない、けんかに強くなりたいと思っていました。やがて、極真会に入るために上京。大学生の姉が東京にいたことから、親も許してくれたんです。当時、やんちゃで知られた私立目黒高校に入学しました。そこに通いながら、城南支部へ行くことになるのです」
強い者を求めてはストリートファイト。やんちゃな少年も黒帯で自覚。
「方言をしゃべると笑われましたね。でもけんかでは負けなかった。ホームシックで島へ帰ろうと思ったこともありました。ですが『俺は負け犬になるために東京へ来たんじゃない』と鼓舞し、台風が来ようが雪が降ろうが、道場にはまじめに通いましたね。ところが、多感な頃(笑い)で東京の誘惑にも誘われて戦いの場をストリートファイトに求めるようになるのです。新宿歌舞伎町、渋谷の宮下公園で友人がやられたと聞くと真っ先に駆け付けましたね。このような回り道もしましたが、『このままじゃいけない』と自堕落な生活から脱却。黒帯を取得して、自覚と責任感が生まれました。やがて城南支部渋谷道場を任されるようになり、空手一筋に邁進するようになりました」
鋼のような強さを漂わせる緑さんだが、『途中で投げ出してしまう性格だった』と弱い己との戦いもあったという。
「1987年の第4回世界大会でヨーロッパチャンピオンと戦いましたが、途中であきらめてしまい、ベスト16にとどまりました。26歳の時、引退して奄美へ帰りました。このままでいいのかと頭の隅にあるものの、故郷でのんびりと過ごしていましたね。戦う相手もおらず、空手も人生も投げ出してしまった感じの時期があったのです。それだけ、島の居心地もよかったんでしょう」
そんな緑さんの心を見透かすように、ある重要人物から連絡が入るのだった。
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緑健児(みどり・けんじ)1962年奄美大島生まれ。78年空手修行のため上京。165㌢70㌔の小柄ながら、2㍍を超す巨体選手に混じって極真空手91年第5回全世界大会・優勝。「小さな巨人」と絶賛される。新極真会代表として、世界を舞台に骨髄バンク支援や青少年指導も行っている。