宇検集落で対馬丸慰霊祭

黙とうを捧げ犠牲者の冥福を祈る参列者

犠牲者の冥福祈り、平和誓う 「歳月過ぎても心痛む」

 太平洋戦争中、米軍の潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊祭が22日、宇検村宇検集落の船越(ふのし)海岸前に建つ「対馬丸慰霊碑」であった。集落住民や近くの久志小中学校の職員らが参列、船が撃沈された約200㌔沖合いの悪石島に向かい黙とうをささげ犠牲者の冥福を祈り、平和の誓いを新たにした。

 慰霊碑は集落住民らでつくる実行委員会が2017年3月、同村の助成を受けて建立。同年から毎年8月に集落主催で慰霊祭を行っている。今年は、新型コロナウイルスの影響から遺族や児童生徒の参列を見送り、集落住民ら約20人で行った。

 式典では、同集落の植田英吉区長(65)が「最愛の家族との再会も果たせず、辛苦の中で命尽きていく姿を思うと、幾多の歳月が過ぎても心が痛みます。犠牲者の冥福と遺族の平安を心より祈っています」と述べ、犠牲者を追悼、参列者全員で花を手向けた。

 式に参列した久志小中学校(児童13人、生徒3人)の徳永由美子校長(54)は「子どもたちが参列できなかったことは残念だが、平和学習などを通し、日頃から対馬丸の悲劇について学んでいる。悲惨な事実に目を向けることは、子どもたちにとってもつらいことだが、平和の尊さを後世に伝えるためにも、しっかりと語り継いでいきたい」と話した。

 「対馬丸」は、終戦1年前の1944年8月21日、学童や一般疎開者ら約1800人を乗せ沖縄県の那覇港を出発。長崎に向けて航行していた22日夜、トカラ列島・悪石島の北西約10㌔の海上で、米潜水艦ボーフィン号の魚雷を受け沈没。784人の児童を含む約1500人が犠牲になった。当時、同海岸や枝手久島をはじめ周辺一帯の海岸には多くの遺体が漂着、遭難者も流れ着いた。住民らは生存者の救助活動や犠牲者の埋葬などを行った。

 撃沈の事実は、戦争が終わるまで軍により秘密にされた。戦後しばらくして、同集落に埋葬された105体の遺骨は、沖縄から訪れた遺族により故郷へ帰り改葬された。