~大島高校創立120周年記念に寄せて~大島センバツ初出場を振り返る

14年3月、大島が初めて甲子園に足跡を残した

 

緑に染まったアルプス席が「オール奄美」でつかんだ甲子園を象徴していた

「勝ち取る甲子園」を目指して進化を続ける大島

引き継がれる高き志 「オール奄美」でつかんだ切符
離島の「ハンディー」「アドバンテージ」に  大島野球の真骨頂

 大島高校野球部が第86回選抜高校野球大会(センバツ)に21世紀枠で初出場したのは、7年前の2014年3月だった。奄美群島はもちろん、鹿児島の離島勢として春夏を通じて初めて甲子園に足跡を残した。

 かつて、大島と同じ県立普通科高校の野球部員だった私にとって、これまで20数年に及ぶ取材歴の中でも間違いなくトップクラスの印象に残っている出来事だった。ちなみに14年は40歳の節目を迎え、秋には母校のOBチームでマスターズ甲子園に出場した。個人的にも何かと甲子園に縁のあった1年だった。

 98年、「松坂世代」の頃から、高校野球をはじめとする鹿児島のスポーツを発信する仕事を生業としてきた。公立校、地方校、進学校が鹿児島で甲子園に出場する難しさを肌で感じていた。

 鹿児島商、鹿児島実、樟南の「御三家」が鎬=しのぎ=を削る時代が長く続き、近年台頭著しい神村学園は全国の頂点を狙う野球を目指している。これまで幾多のチームが強豪に挑み、歴史を塗り替えたいという挑戦しながら、涙をのみ続けた姿を見てきた。

 同時に、日々の取材の中で、挑まれる側の強豪チームが「負けられない」プレッシャーをはねのけて結果を出し続ける姿に感服するものがあった。

 「マスコミに面白いネタは提供しませんよ」。かつて樟南を率いて全国クラスの強豪に育てた枦山智博監督が話していたのを思い出す。勝って当たり前の樟南が勝つよりも、挑むチームが勝てば、メディア的には確かに「面白いネタ」にはなる。だが「そうさせてたまるか!」という負けじ魂を発揮するのが枦山野球だった。こういった海千山千の猛者を倒して、大島のような学校が甲子園に出場する姿を想像するのはなかなか困難だった。

 今にして思えば12年秋の1年生大会がセンバツへとつながる物語の始まりだった。センバツの主力メンバーだった重原主将らが1年生の頃、1回戦で樟南と対戦。降りしきる雨の中、10―12で敗れたものの、最大6点差を追いつき、一事逆転する粘りを見せた。

 翌13年春は4回戦で神村学園を7―5で下した。強力打線が持ち味の神村に対して、打ち合いを挑み、打ち勝ったことが何よりの驚きだった。続く準々決勝では国分中央を下し、91年秋以来実に22年ぶりとなる県大会4強入りをつかんだ。

 続く秋は準々決勝で樟南に8―7で競り勝ち、2季連続の4強入りを果たした。1年生大会では「仕留める力、勝ち切る集中力」(渡邉恵尋監督)が足りずに敗れた相手に、雪辱した。先手を取りながらも追い上げられる苦しい展開だったが、最後はエース福永が3者凡退で打ち取った。「先輩たちから築き上げたものが礎になり、心のスタミナがついた」(渡邉監督)ことで勝利をつかんだ。

 決勝進出、九州大会出場は果たせなかったが、神村学園、樟南といった強豪校に打ち勝っての2季連続での4強入りは21世紀枠の選考において大きく評価されたことは間違いないだろう。

 大島の2季連続4強入りに触発され、「奄美から甲子園は可能か?」と題した正月特集を書いた。72年夏に大島工、徳之島が県大会に出場してから始まった奄美の高校野球の歴史を紐解き、甲子園出場の可能性について論じた。本土に比べて硬式の高校野球の歴史自体が浅く、経験不足、遠征費など多額の費用負担が「離島のハンディー」となる中で、それらをいかに克服してきたか、甲子園出場を勝ち取るためには何が必要かなどを書いた。

 まさかその原稿が掲載された14年に、21世紀枠によるセンバツ出場が実現するとは夢にも思わなかった。野球部が地道に実績を積み上げたことに加えて、10年の奄美豪雨災害からの復興、13年の奄美の日本復帰60周年など、地域の歴史的な出来事ともリンクし、まさしく「オール奄美」でつかんだ切符のように思えた。

 特筆すべきはセンバツ出場後も大島が安定して県大会で上位の戦績を残している点である。

 14年=春九州大会出場、NHK旗ベスト4、15年=春ベスト4、秋ベスト4、秋九州大会出場、16年=春ベスト8、夏ベスト8、17年=春ベスト4、NHK旗ベスト4、夏ベスト8、19年=夏ベスト8、秋ベスト8、21年=ベスト4(3位)。7年間で九州大会出場2回、県大会ベスト4が6回、ベスト8が5回だった。これだけ安定して勝ち続けているチームは、神村や鹿実などの強豪私学以外では大島が断トツである。

 センバツ出場に満足することなく、「勝ち取る甲子園」を目指して志を高く掲げ、挑戦し続けることがチームの伝統として定着しつつあるのを感じる。試合に勝っても負けても、見えてきた課題を明確にして、次の試合までのタスクとするサイクルが確立されている。野球だけでなく、遠征先での宿泊時の過ごし方、普段の学校生活にまで目を向けて、トータルの人間力で勝負する姿勢は、渡邉監督の後を引き継いだ塗木哲哉監督にも貫かれている。離島の「ハンディー」を逆手にとって「アドバンテージ」にかえるところが大島野球の真骨頂といえる。

 近年は野球人口の減少著しく、9人ギリギリの小規模チームや、複数校による連合チームが増えている。甲子園云々の前に、野球ができるかどうかに不安を抱えるチームも増えつつある。そんな時代にあっても志を高く掲げる大島の存在は希望の光を放っている。(政純一郎)