次世代への継承願い防空壕跡で犠牲者悼む

1975年に奄美市笠利町中金久の防空壕跡地に建てられた慰霊碑


慰霊祭では地元赤木名小の子どもたちが手を合わせた(6日、奄美市笠利町)

奄美市笠利町 赤木名小児童も参列

 1945年8月6日、奄美市笠利町中金久の防空壕(ごう)が空襲を受け、地元住民ら40人が犠牲となった。79年目の同日、赤木名慰霊碑会(里斉亮会長)が防空壕跡地で慰霊祭を営んだ。遺族約10人ほか、地元赤木名小の児童たちが参列。前会長、平田博三さん(82)による講話もあり恒久平和、戦争体験の継承への願いが子どもたちに伝えられた。

 跡地は現在の笠利公民館敷地内裏にあり、当時の防空壕はコの字型で幅6㍍、奥行き3㍍、高さ2・5㍍。所有者の築島吉介氏の名前から「吉介壕」と呼ばれていた。同会は1975年、寄付金を基に慰霊碑を建立し管理にあたっている。

 平田さんは10年ほど前、遺族ほか空襲当時を知る住民らへの聞き取りを実施。講話では、広島への原爆投下があった同日の午後1時頃、米軍機が防空壕北側を爆撃し、南側と避難状況に差異があったことなど解説。「戦争はあってはならないが、世界では続いている。将来皆さんが、戦争が起きない社会を作ってほしい」と呼び掛けた。

 講話後、参列者はみ霊に手を合わせ、赤木名小5年の肥後雄大君(10)は「話を聞いて(空襲当時の)想像をしたけど、恐ろしくなり考えが進まなかった。戦争はあってはならないと思う」と話した。

 平田さんは「慰霊祭に参加する遺族が年々少なくなり、開催継続が大きな課題。今日の話が次世代への継承につながれば」と語った。

 爆撃による犠牲者は1歳から74歳までの男女40人。地元住民や青年学校の生徒、喜界町、和泊町出身の教員らがいた。