講師に100歳の語り部・廣島員代さん

100歳の語り部として若者らに思いを伝えた廣島員代さん=10日、伊仙町

戦争に翻弄もたくましく生きる
「足元を見つめシマを知る」 「いせん寺子屋」講座

 【徳之島】人生100年時代の学びを徳之島で展開する「いせん寺子屋」(伊仙町教育委員会主催)の今年度第1回講座が10日、同町農業支援センターであった。「足元を見つめシマを知るプロジェクト」と題し、満100歳の語り部・廣島員代(かずよ)さん=同町木之香=が講師に登場。旧満州国(現・中国東北部)から九死に一生を得ての帰国、祖国分離下の古里での暮らしなど、戦争に翻弄(ほんろう)されつつも前向きにたくましく生きた100年の1ページを振り返った。

 小中高生から一般まで25人が聴講。児童生徒たちは夏休み課題の一環として、聞き取った内容は町生涯学習フェスタ会場で発表する。

 廣島さんは1924(大正13)年2月8日生まれ。旧日本軍占領の傀儡(かいらい)国・満州について「私たち(離島)は水平線しか知らないが、中国はどこまで行っても地平線。初めて会社勤めをして待遇も良く幸せだった」。だが、ソ連の満州侵攻(1945年8月9日)で状況が暗転し、翻弄されることになる。

 「敗戦後も流れ込んできたソ連兵は囚人、刑務所に入っていた乱暴者たちばかりだった。日本人女性たちは顔に墨を塗ったりした」。金品の物色・略奪に血眼となったソ連兵の中には1人で10~20個の腕時計をはめている者もいた。揚げ句の果ては「金歯の人(邦人)は金づちでたたき落して持ち去られた」。殺りくの模様は避け、筆舌に尽くしがたい光景の一端を証言した。

 日本の降伏・戦争終結(45年8月15日)に伴い会社は閉鎖。廣島さんは台湾軍や八路軍(中国共産党中核部隊)、ソ連兵に見つからないように社宅に籠もり続けた後、アンダの収容所へ移動。ハルピンから大連西側の葫蘆島(ころとう)に石炭車でたどり着き、半旗を掲げた日本の軍艦(約300人)に乗船できて博多へ。46年に九死に一生を得て帰還できた。当時23歳だった。

 そして、名瀬経由で徳之島に帰還できたのは47年の旧正月前。だがその古里・奄美群島は本土と行政分離され米軍政下にあった。自活のための闇商売で、母から白紬や黒糖(二十五斤=15㌔)を預かって密航船(漁船8㌧)で鹿児島を目指すも警察に逮捕、没収された苦い経験もした。「その警察官に『日本人だから来た』と言ったら苦笑していた」とも述懐した。

 廣島さんはその後、独身を貫きながら美容師免許を取得後大阪に渡る。再び帰郷したのは97年(当時74歳)。ハルピン当時(45年)に奇跡的に再会した友人の影響で短歌を始めていたこともあり、伊仙町榕樹(ようじゅ)短歌会に入会した。2001年からは名瀬「ゆらおう会」会員として短歌・川柳・詩を創作。各同人誌などへの投稿のほか、05年には「童話・短歌エッセイ・小説『結の花』」も発刊している。

 廣瀬さんは100年の人生を振り返り「皆さんの前でお話をするのは初めて。次世代の人たちに感謝の思いを伝えたい。引き揚げる時に大変な苦労をした。船にも感謝、お国にも恩返しがしたい」。子どもたちには「人間として当たり前の勉強をして歩んでほしい」ともエールを送った。約1時間半、笑顔を絶やさずエネルギッシュに語り続けた。

 受講生の一人、満野政幸さん(面縄中3年)は「奄美群島に住んでいながら古里の歴史を知らない。大人になって自分の子どもたちに伝えられるようになりたい。(廣島さんは)思い出したくないつらい過去かも知れないのに、自分たちに伝えてくれて感謝したい」と話した。

 「いせん寺子屋」は今後、▽8月24日「みんなの経済新聞記者チームによる地元発信の極意」▽9月14日「琉球沖縄と奄美諸島史」▽同28日「島唄半学」▽12月7日「世界の大学生と徳之島を語ろう」▽25年3月1日「島のお年寄りの物語を詩と写真で伝える」―を予定している。問い合わせは同町教委社会教育課・町誌編纂(へんさん)室(電話0997・86・4183)へ。