伝える 大島海峡・戦争遺跡 =上=

近代遺跡のうち軍事を示す施設が次々とつくられたのは大島海峡が果たした「防衛上の重要性」がある


制作された六つの遺跡のマップ

「国土防衛上重要な場所」

 奄美大島の南部にあり、加計呂麻島との間に広がる大島海峡は、美しいリアス式海岸に200種ともされるサンゴが生息する。こうした海中景観が高い評価を受けて海峡全域が奄美群島国立公園に指定された。「天然の良港」とされるほど波静かな入り江。今も瀬戸内町の産業を支える真珠貝や魚の養殖場として明治時代から利用されてきたが、一方でこの時代から軍港の適地とされたことで軍事的な施設が整備された。その歴史を伝えるのが大島海峡周辺にある戦争遺跡だ。今年で戦後79年、来年は80年を迎える。戦争の記憶が風化しつつある中、遺跡に関わることで歴史を語り継ごうとしている地元高校の取り組みを紹介する。

 町教育委員会では、町内にある戦争に関係する200余りの遺構を52遺跡に整理。これを近代遺跡としている。日本の近代史を理解する上で重要な遺跡が近代遺跡で、対象時期は幕末・開国頃から第2次世界大戦終結頃までとし、文化庁は「国として、地域として近代史の特徴がよく分かり、学術研究上、重要な構造物」と位置付ける。

 同町の近代遺跡は、薩摩藩が久慈集落に建てた白糖工場(幕末から明治期にかけて)から始まる。白糖工場は産業に結び付く「経済」に関する遺跡だが、その後に造られた構造物の多くは「軍事」、つまり戦争に関する遺跡だ。町教委が2014~16年度に行った分布・確認調査により明らかになった。

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 町教委は調査結果を報告書にまとめると同時に、分かりやすく説明した近代遺跡パンフレット・マップを22年度に作成(文化庁補助事業活用)。町内全戸に配布したほか、中学生や高校生一人ずつに配布。一般や町の次代を担う子どもたちの関心が高まる機会を見計らったようにタイミングよく翌年の3月には、「奄美大島要塞跡」として三つの遺跡(大正期の西古見砲台跡、安脚場砲台跡、手安弾薬本庫跡)が国の史跡に指定された。ところでなぜ、大島海峡にこれだけの軍事施設、戦争遺跡が存在するのだろう。

 「大島海峡が瀬戸内町にある、ということが、町内に近代遺跡が多く残る最大の理由」と記述するパンフは時代ごとに説明している。時期ごとにまとめるとこうなる。

 明治期=大島海峡は日本本土と台湾や南洋諸島(太平洋の南方に広がるマリアナ諸島、カロリング諸島、パラオ諸島など)をつなぐ、航路上の重要な拠点となる。日本は朝鮮に対する主導権をめぐり、清国(現在の中国)と対立を深めていく。琉球や台湾の領有問題も表面化し、日本海軍は大島海峡を東シナ海における重要な港と考える。この頃の主な移動手段は蒸気船であり、燃料は石炭。そのため、大島海峡に艦船用の物資補給施設や諸外国への海上監視施設などの軍事施設がつくられた。

 大正期=奄美大島は小笠原諸島の父島や台湾の澎湖島とともに、太平洋の重要な地点として要塞の建設地となる。日本陸軍は奄美大島要塞の建設を開始し、古仁屋に奄美大島要塞司令部(現在の古仁屋高校敷地内に設けれ、同高は跡地)を開庁。これにより大島海峡は日本の国土防衛上、重要な基地の一つなっていく。

 昭和期=12年に日中戦争が始まると、その後、奄美大島要塞の一部に武器が備えられていく。第2次世界大戦直前の16年9月には、陸軍の部隊(重砲兵連隊、通信隊)や陸軍病院が置かれ、軍備の増強が行われる。海軍も加計呂麻島・瀬相に部隊(大島防備隊)を置き、さまざまな軍事施設を終戦直前までつくっていく。

 大島海峡は軍事上の拠点として、「日本の国土防衛上重要な場所でした」。これが答えだ。

 パンフでは、こうした戦争を伝える遺跡(近代遺跡)が多く残っている理由も触れている。「最大の理由は、米軍との上陸戦が行われず、軍事施設が攻撃されなかったから」「現在、残っている軍事施設には、管理されないまま放置されてきたものも多くある。これは、軍事施設が集落から離れた山頂や谷あいなど終戦後の生活において不便な場所につくられていたから。そのため、開発工事などで破壊されることが少なかったと考えられる」

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 実際に足を運んで見学してもらうことで、遺跡の調査成果を広く町民に知ってもらおうと制作された六つのマップ。時代的に古い順では明治期の「佐世保海軍軍需部大島支庫跡」(久慈集落にあり取水口、瀘水池、水溜が残り、レンガ造りが特徴の水溜は道路から見学可能で、他は立ち入り禁止)、国指定史跡となった大正期の3遺跡、昭和16年頃の「大島防備隊本部跡」(加計呂麻島・瀬相集落)、そして終戦間際の「第18震洋隊基地跡」(加計呂麻島・呑之浦に基地が置かれ、震洋とは爆薬を載せた小型モーターボートで海上特攻兵器)となる。

 マップが制作された6遺跡が伝える歴史。町教委埋蔵文化財担当職員の鼎丈太郎さん(48)は語った。「日清戦争から始まり、大正期の軍縮、そして再び中国との戦争(日中戦争)を経て大戦、最後は決死の任務を担う特攻と悲惨な敗戦の歴史を示している。戦争遺跡は負の遺産かもしれない。だが、こうした歴史を伝える本物の構造物が町内に残る意義、遺跡の重要性を知っていただきたい」