2024夏 思い出 3題 3題目 故右田昭進・和子夫妻を「偲ぶ会」

故右田昭進・和子夫妻を「偲ぶ会」参加者


「偲ぶ会」での伊是名の舞

「島さばくり」の造語創る

 昨年8月に亡くなった右田昭進さん(94)と2022年12月に亡くなった妻、和子さん(87)夫妻の「偲ぶ会」は、大井町の日本民謡会館で8月11日に行われた。当日は、「芦良会」と「伊是名の会」が中心となり、遺族らも駆け付け、「奄美の文化発展を願っていた」(遺族の言葉)故人を多くの参加者が追悼した。

 右田さんは関東在住の出身者たちから「昭進兄」と呼ばれており、開会のあいさつで徳岡辰寛元芦良会会長は、「新宿で昭進兄と飲んでいた時、和子姉は鎌倉からわざわざ車で迎えに来る仲睦まじい夫婦だった」と紹介。宮崎に行く前に入居した老人ホームでは、寂しそうな昭進兄のために和子姉は「シマ唄をうたってほしい」と懇願。福山利光さんと田辺博文さんが三味線持参で訪問、シマ唄三昧に夫婦で大喜びしたことも伝えられた。 

 右田さんは1929年生まれ、47年に大中に。軍政下時代で密航して上京。中央大学法学部卒業後、奄美と沖縄のマスコミ各社で働き、奄美会の名簿作りや会の運営を担い「奄美のこと、なんでもいらっしゃい」と諸手を広げる文化人。特に「奄美の生き字引」的な存在で右田さんの著書『島さばくり』という言葉を一般化させた人物とその功をたたえた。

 天国で見守っているであろう2人に「東京の父のような存在で、『伊是名の会』を4代にわたって応援してくれた」と同会の前代表・原口このみさんは紹介。シマ唄や舞踊が大好きだった2人のために踊りを捧げた。

 右田さんが特に同会を「素晴らしい、あっぱれ」と褒めちぎったのは2006年の「太陽の郷土の踊り」と題した同年の定期公演。武下和平さん、坪山豊さん、築地俊造さんの奄美シマ唄界の大御所3人を招待して舞踊公演を行った時のことだ。「自治体でさえできないことを『伊是名の会』という1団体が初実演」と手放しで拍手喝采を送っている。その3人のシマ唄「長朝花節」(武下)、「あやはぶら節」(坪山)、「ワイド節」(築地)が舞と共に披露された。

 当日、参加できなかった英辰次郎元奄美会長は(代読・田辺博文さん)「これからの21世紀を生き抜いていく後進の若者たちのために『島さばくり』の本書が少しでも手助けとなり、座右に備えて活用して」と「贈る言葉」を綴り、右田さんのあとがきから思い出を紹介した。

 復帰60周年時に右田さんへのインタビューを行った池田秀秋さん、藤井壮望さん、惠原睦夫さんの3人は、当時の思い出を「話は本当に数分で終わり、酒宴となった」と懐かしく湘南台の自宅での様子を語り、笑顔を誘った。

 遺族代表で和子姉の妹・島田久子さんは「自宅で『よ~り、よ~り』過ごすことが希望だったが、老々介護が困難になり、老人ホームに入居。2022年2月に宮崎のわが家へ。今回の会の開催に本当に感謝します。兄と姉のためにありがとうございました」と謝辞を述べた。2人の遺骨は湘南台の自宅から現在は座間市の妙法山星谷寺に納骨されているという。

(写真・屋宮秀美、文・永二優子)

記者の思い出

 記者が右田昭進さんに出会ったのは、40年ほど前。当時、東京タイムスの記者だった私は、娘をおんぶして、高田工業㈱を訪ねた。専務だった。旧姓をペンネームにした名刺を見て「はげえ、あんたは、小宿の名前だねえ。やっと女性の記者が誕生した。よかった、よかった」と握手の力強さと、島への飽きることのない熱い思いをひとしきり語っていた。

 それから数年経って、後輩たちと湘南台の自宅に数回伺うチャンスがあった。お互いに焼酎を交わしながら、島の話や大中の話、2人の出会いや琉球新報時代の記者の話題など、よどみなく答えて話して笑う姿は今でも記憶に新しい。『伊是名の会』の話題は、誰よりも熱く語っていた。

 広いリビングの左端に黒糖焼酎を置いて飲む昭進兄の姿もさることながら、記者は隣の衣裳部屋に並んでいた、和子姉の衣装をなんと、数枚もちょうだいしたのだ。

 2人の思い出は、新宿の「高倉」で食事して飲んだことが最後になったが、にこにこしていた夫婦の笑顔が今も忘れられない。ありがっさまりょうた。 

合掌