東京で故徳田氏お別れの会

徳田氏がほほ笑む遺影の祭壇。円内は列をつくった会場の様子
徳田氏の業績パネルには多くが興味深く見入っていた

医療、政治で貢献1600人以上が参列

【東京】医療法人徳洲会グループ創設者で、政治家としても活躍した徳田虎雄氏(享年86歳)の「お別れの会」が23日、港区のホテルで開催された。幅広い層から慕われた徳田氏を象徴するように強い雨にもかかわらず、多くの関係者が訪れ、故人をしのんだ。28日には大阪に会場を移して行われる。

徳田氏は「生命(いのち)だけは平等だ」との信念で、特に離島やへき地の医療充実を図り、救急医療体制の構築に尽力した。医療法人・徳洲会の創設者の一方で、衆院議員としても活躍。1990年衆院選に旧奄美群島区から出馬し、初当選。同区では保岡興治元法相と群島を二分する「保徳戦争」も繰り広げ、村山富市内閣では沖縄開発政務次官(95~96年)として奮闘した。    

港区高輪のグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われた「徳田虎雄お別れの会」には、故人の笑顔に誘われるように出身者や医療界、政界から関係者ら1643人が参列した。広い会場には、献花に並ぶ6列が途絶えることなく続き、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」がチェロの調べで繰り返し流された。徳洲会の石川一郎本部長は「いつでも、どこでも誰もが最先端の医療をとの遺志は、まだ道半ば。歩みは止まらないとの思いで選曲した」と説明した。

埼玉・狭山市からつえをついて来場した森孝さん(84)=福岡県出身=は『徳田虎雄に育てられた男』(万代宝書房)の著書もある元徳洲会副総長。「俺の代わりに秀子(徳田氏夫人)と世界を回れと命令され、いろんな所へ行きました」と思い出を語り、「3回目のお別れ会だが、来年もあるような気がする。それほど深く交わった」と感慨深く語った。

別会場では手帳や名誉理事長時代に履きつぶしたイタリア製の革靴、数々のエピソードと写真がパネル展示され、徳田氏の業績に多くが見入っていた。故人を思い出したのか、あるスタッフはハンカチで目頭を押さえていた。

東京奄美会顧問で和泊町出身の森眞一さんは「すごいのは、日本のみならず世界を見据え活躍されたこと」と偉業をたたえていた。

徳之島徳洲会病院長などを歴任後、政治家へ転身した大久保明伊仙町長は「離島の医療への貢献度は絶大で、彼の原点は島にあると多くの人と改めて話した」とお別れ会を振り返った。また、徳洲会グループが今以上に住みやすい島になるようにと掲げる「ヘルシー・リゾート・アイランド構想は「実現可能だと確信した」と残された後輩たちへエールを送るように力説した。

参列者を笑顔で迎えた徳田氏。遺影の下には白いユリが飾られ献花と同じ白いカーネーションが祭壇を埋め尽くした。徳洲会グループをかたどった鳩(はと)は、赤いカーネーション(花言葉は真実の愛)と緑のてまり草(同・永遠の幸福)だった。