11月のライブに駆けつけた高橋全さんと一緒に
高橋全さん(64)は1994年に朝崎さんと出会う。ピアノとのコラボレーションを希望されるが、当初はピアノとは合わないのではないかと、思っていた。
96年の朝崎さんのリサイタルに音楽のプロデュースで参加することになり、朝崎さんのシマ唄に向き合う決心をする。歌の稽古をのぞきに何度も足を運び、それでも、学びを深めたい、もっと知りたいと話すと、朝崎さんはアカペラで40曲歌ってくれた。その中に八月踊り歌があった。起源が古くシンプルな歌、この歌ならピアノが付けられるかもしれない。
曲が完成し、朝崎さんとの初めての音合わに臨む。演奏中から、身体の芯がぞくぞくした。朝崎さんの歌は奄美のモノと言うより、世界のモノだと実感した。周りにいた人らが涙していた。三味線とやっている時には気が付かなかった感覚だった。
その時、朝崎さんは既に50代後半、完成されている朝崎さんの歌はいじることができないし、壊してはいけない。難しくもあったが、それを一番意識し、それさえできればいいと思っていた。2人とも時間があったのが好都合だった。2年間以上の時間をかけ、熟成させることができた。
朝崎さんの歌が、三味線を取っ払うことでシマ唄というジャンルから一気にワールドクラスのミュージシャンになるのを、その時感じた。翌年にシングルCD「海美」をリリース、インディーズレーベルでデビューとなった。
2002年、ゲストにUAさんを迎え、ユニバーサルから「うたばうたゆん」でメジャーデビュー。奄美のすごさを外の人、みんなに聴いてほしいという思いが強かった。朝崎さんはこれまでにも、国立劇場で10年連続やってきていた人、ずーっと歌う人だった。リハーサルも本番も、おうちでの鼻歌も、何も変わらない。歌がずっとある。誰に対して歌うとかはない。福岡にいた12年間も子育てしながら台所で歌っていた。ただ歌がある。それが朝崎さんの圧倒的な強さだと思う。
アニメで使われたことを通じて、世界に知られることになったが、再生回数が半端ない。日本より、世界に知られている。潜在的なファン層の厚みは想像できないほどでしょう。世界に通用すると最初に思ったのは間違いではなかった。
朝崎さんを見ることで、奄美の若い人たちに気付いてほしい。奄美の魅力、日本の魅力を海外にどれだけアピールできるか。朝崎さんが示してくれたものはそれが一番だったと思う。奄美が持っている魅力をそれぞれが自分なりに広めていくことで、もっとアピールできると思う。世界で活躍できる人が奄美からもっともっと出てくると思うので、大事にしてほしい。
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ピアニスト/コンポーザー/エンジニア、1960年、名古屋生まれ。ハンブルク国立音楽大学で学び、ヨーロッパの各地でチェンバリスト、オルガニストとして演奏活動を繰り広げた後に帰国。97年、朝崎郁恵との共演CD「海美」をリリース。その後の朝崎郁恵のメジャーデビューの基盤を築く。
ゆめ企画主催で4月に弘法寺で開かれたライブ。伊藤さん、江草さん、五十嵐さんらが朝崎さんをサポートし、会場からは盛んな拍手が送られた
ゆめ企画(喜原弥穂子さん・沖永良部出身・70)主催で開かれた
Routes to Roots Live vol.3は、昨年4月28日、港区弘法寺で開催された。ニュージーランド、新潟、京都、北海道からの来場者も。80%が初めての人。「嘉義丸のうた」をメインに開催。能登支援の募金箱もあった。
喜原さんは5歳の時セミドキュメンタリー奄美群島の本土復帰直後の学校の校庭で上映された映画「エラブの海」を見て、今の仕事に進んだ。その時の挿入歌に使われていたのが朝崎さんのシマ唄だった。その縁で、2人は共にいろいろなイベントを開催している。その映画に出ていた海女さんが石川県輪島の人という縁もあり、能登の震災をイベントで「応援したい。縁を縁で返したい」と企画された。
締めの曲は「千鳥浜(チジュリャハマ)」。五十嵐さんのピアノに乗せて、朝崎さん、江草裕子さん、伊藤宙美さんの3人で歌い合った。
拍手と歓声のうちに幕は下りた。今回初めて生歌を聴いたという奄美出身の祝竜矢さん(34)は「CDで聴いていて、生で聴いてみたいと来ました。歌が自分に寄り添ってくれるようで元気をもらいました」とうれしそうに話した。