中井さん神戸新聞で陣頭指揮

2019年5月の地域振興展で

阪神大震災30年 出身者勇気づけた義援金
「互い心配する風土がある」

 2024年元日に起きた能登半島地震。今月14日にも宮崎で震度5弱の地震があるなど南海トラフ地震への懸念が深まるなか17日、阪神大震災から発生30年を迎える。死者6432人、いまだに3人の行方不明者、奄美群島出身者も多く被災した。報道の立場で奮闘した、奄美大島出身の中井和久さんに電話インタビューした。(高田賢一)

 暗闇の中、神戸新聞社社会部副部長として陣頭指揮。

 「ベッドから立ち上がろうとしても2度ダウン。3度目でやっと立ち、息子の自転車を持ち出し暗闇の中、須磨区から三宮へ。神戸駅前に建設中だった本社はほぼ全壊。ぐにゃぐにゃになった外階段から2階の編集局にたどり着いた。本社から運動部も経済部も全員社会部に召し上げ、仮の編集局を立ち上げ報道に当たりました」

 3か月間無休で100人の健康を管理。紙面づくりに奔走(ほんそう)。

 「通常は県や県警などからの発表に基づいて取材をするが、それが皆無。倒れているマンションの写真は撮れるが、中で何人が犠牲になっているかなどの情報が得られない。100人の部下の健康管理をしながら16㌔を歩き往復、3か月無休でした。京都新聞との協定で当日の夕刊が出たのが午後5時頃。手分けして無料で避難所に束で配達したのです。読者の行方が分からない状況ですから。1898(明治31)年の創刊以来、絶やさず発行を続けられた。『ブンヤ』の誇りを守れましたよ。深夜自宅に帰る際、自警団の方々に不審者扱いされた。懐中電灯の光の中で、その都度説明する日々でした(笑)」

 京都新聞との緊急時援助協定が結ばれたのが、1年前の1月17日だった。自らも被災者の記者が作った新聞は、安心感を与えた。郷友会の会館も半壊するなか、絆を確認。

 「郷土会のよりどころだった会館、むつみセンターも半壊。そんななか真っ先に市町村長が義援金を届けてくれた。誰がどこに避難しているかも分からない状況で、素早い対応は出身者を勇気づけてくれた。奄美は互いを心配する風土がある。真の絆を感じました。暗闇に灯る希望の灯りでしたね」

 震災を経験したことでの教訓には疑問符が。

 「30年前の体験が生かされるかは、クエスチョン。水や履物を用意したりする程度だ。地震予知連が東海や南海トラフなどを想定してはいるが、あまりに外れるので全国に警戒のターゲットを広げている印象だ。考えきれない。自然に任せるしかないだろう」

メモ

中井和久(なかい・かずひさ) 1946(昭和21)年生まれ。鹿児島県立大島高校、北九州市立大学文学部卒業。70年に神戸新聞社へ入社。東京支社で国会、中央省庁などの取材を担当後、阪神総局長などを務めた。神戸奄美会会長、関西奄美会副会長を経験。好きな言葉は「奄美はひとつ」。神戸市垂水区在住。