現在、奄美大島ではなかなか見ることができない青々とした葉を蓄えたソテツ(2008年11月、龍郷町今井崎、浜田太さん撮影)
奄美市笠利町のあやまる岬観光公園には貴重な群生地があるが、ここにも外来カイガラムシによる被害が及び、拡大している(2024年9月)
食糧難の頃、先人の命を救ったソテツの実(ナリ)。専用の器具を使ってのナリ割り作業。これを原料にして粥=かゆ=などにし食した(2007年10月、浜田太さん撮影)
2024年の新年号でも取り上げた奄美大島のソテツ被害は、収束へ向かうどころかむしろ深刻化している。「国内初確認の外来種」として県が発表したのは22年12月。ソテツの幹や葉に寄生し、吸汁する害虫である外来カイガラムシ(和名・ソテツシロカイガラムシ)による被害は最初の頃、島北部の街路樹などで確認された。北部では貴重な自生地や群生地にも及ぶようになり、被害葉の切除や登録薬剤(浸透性タイプのマツグリーン液剤2、マシン油乳剤など)による散布が進められても目に見えた効果は出ていない。春先には緑色の新芽が出たものの、やがて茶色や白色に変色。海沿いに植樹されたソテツの中には、夏や秋の台風通過後、強風により枯れた葉が吹き飛ばされ、まるで標柱のように幹だけとなったり、倒れるなどの無残な姿をさらけ出した。
こうした被害は北部だけでなく南部でも確認され、島内全域へと拡大している。南の島の象徴とも言えるソテツ。力強く四方に広がった青々とした葉と、中心部分に真っ赤に実った無数のナリを見ることができないような状態だ。枯れた葉だらけとなり、健全なソテツが失わられ、奄美大島では絶滅の懸念が現実味を帯びていないだろうか。
「相手は世界的なソテツの害虫(通称:CAS)!根気強い対策が必要」という関係行政機関の呼び掛けを思い起こしていくためにも、25年の新年号では奄美の食文化にみる歴史性、再生に向けて後継樹づくりの可能性を専門家の意見も踏まえながら特集する。価値あるものを残していくために。
(徳島一蔵)
■ハイブリット
「奄美の伝承料理は宝です。世界一の長寿者を二人も育み、世界に誇れる奄美の財産です。この財産を生かしながら奄美の食文化を次代に継承していけたらと思っています」。『奄美の食と文化』(南日本新聞社発行)著者の一人、久留ひろみさんは、あとがきで記述している。栄養士の資格とともに、沖縄国際大学で民俗学、鹿児島大学大学院で比較民俗学を学んだ久留さんは奄美の食文化の特性について、琉球料理と薩摩料理をうまく取り入れて成立した「ハイブリットな食文化」を挙げる。
食文化の歴史的な側面。そこにはソテツも関わるが、まず郷土料理の代表とも言える「鶏飯」から考えてみたい。現在は観光客にも広く知られており、知名度では全国区になりつつある。学校給食の献立メニューにも取り入れられ、子どもたちの人気も不動だ。その歴史は「奄美群島が薩摩藩の直轄地だった江戸時代に、奄美大島北部(笠利)で藩の役人をもてなす豪華料理として創り出された」とされているが、その頃にはすでに奄美には鶏飯は伝播し確立されていたと考えられている。理由は高度な技術のいる料理であり、琉球王朝尚家、他結婚式では鶏飯が作られていた資料があるからだ。
もてなしたのは薩摩の役人だが、そもそもどういう経緯で鶏飯は生み出されたのだろう。なぜ笠利で普及したのだろう。久留さんは「1400年代に琉球王朝から『鶏飯』『シマ(黒)豚』『甘藷=かんしょ=』『ミキ』が持ち込まれた」と指摘し、琉球王朝の貿易相手が中国だったことに着目する。
鶏飯の漢字読み。「とりめし」ではなく、「けいはん」と読む。「中国語だと、『チーファン』。鶏肉や卵、シイタケなどの具材を全て千切りにしている。これは中国料理に見られるもので、チンジャオロース(青椒肉絲)がおなじみ。料理名の最後の部分『ス(絲)切り』と呼ばれる」。久留さんは鶏飯調査を目的に中国・福建省を訪れた。2018年のこと。今や沖縄でも見ることのない鶏飯のルーツは「奄美の人が調査しないと誰もしないのでは」と思い調べたかったという。福建省には「鶏飯(チーファン)」という料理があった。そこで聞いたのは「鶏は鳳凰=ほうおう=の代わりで、牛より豚よりも一番神聖なもの」と珍重されている料理だったということ。
調査はルーツの解明に役立った。「料理の形態として重なる部分がある。鶏のスープを用いる点など客家=はっか=民族の料理が鶏飯のルーツではないか」。中国との交易を通して琉球に伝来した可能性。琉球国の王家である尚家=しょうけ=の料理には鶏飯があるという。それがなぜ笠利に――。「那覇世=なはんゆ=」と呼ばれた琉球国による奄美群島への軍事侵攻が関係しているようだ。