奄美の食文化の歴史性について著書を手に説明する久留ひろみさん
奄美市笠利町笠利集落内。琉球王統治時代は「トゥンチ(殿内)」と呼ばれた場所。現在はサンゴの石垣が、その名残をとどめている
薩摩藩統治時代の「大島奉行所跡」を説明する看板(奄美市笠利町笠利集落)
ソテツのナリを原料にうどんを作っている和田昭穂さん(92)。昨年は1~2月にナリを収穫し原料を確保したものの、「被害の拡大で新たな収穫はできず、保存(赤い皮の部分を取り除いたナリと粉)したものがなくなると、『ナリうどん』は作れない」と語る(奄美市笠利町打田原で)
琉球国は「おおむね15世紀中頃には奄美諸島を統治下に編入した」とされている。これにより琉球国の行政機構が奄美群島にも適用され、現在の地方自治体に相当する「間切=まぎり=」と呼ばれる行政単位が導入された。奄美大島の場合7間切(笠利・古見・名瀬・住用・焼内・東・西)であり、笠利間切において、現在の奄美市笠利町笠利集落(大笠利)には王家との関係性を示すような地名が残る。「トゥンチ(殿内)」と「ウドゥン(陵墓)」だ。トゥンチは、集落で行われる八月踊りの振り出しの場になっているという。今なお特別な場所なのだろう。
この地名が、琉球国侵攻の歴史を刻んでいるとすれば鶏飯は、王家から伝承された食文化と言えるかもしれない。奄美大島や喜界島を征服したのは、琉球王朝第一尚氏の時代とされている。「侵攻した王など一行の食を賄うため調理する包丁人(料理人)も帯同したと推察される。そこで調理された食。王家の食だったことから鶏飯も調理されたのではないか。そこに地元の人々も出入りし、食材の切り方や鶏肉の使用などを学び、やがて手中にしたのでは。奄美における鶏飯の最初は大笠利の人々の料理だったと考察できる」(久留さん)
なお、笠利集落には1971年、当時の笠利町が文化財に指定した「大島奉行所跡」が存在する。教育委員会が設置した看板には、この説明文がある。「琉球王朝から薩摩藩の直轄地となって大島全体の行政機構がここに置かれた。慶長18年(1613年)から寛永10年(1635年)の22年間大島統治の拠点となった。現在は石垣だけがその名残をとどめている」
薩摩藩が奄美群島を侵攻したのが1609年。統治により今度は「大和世=やまとゆ=」となったが、南の琉球王朝に続き、北の薩摩藩も奄美の食文化に影響を与えている。「三献=さんごん=」「素麺=そうめん=」「醤油=しょうゆ=」だ。正月のほか、結婚式や年の祝いなどのようなハレの席に欠かせない三献について久留さんは「そもそも三献は日本料理の一つで本膳料理。『食事をとる』ということで行為自体に儀礼的な意味を持つ。室町時代に確立し江戸時代に発展した形式。日本では明治時代以降にほとんど廃れてしまった儀礼食。その三献が奄美では一般の家庭にも浸透しているのは注目すべきこと。これは薩摩藩から伝播された日本料理だが、鹿児島では一般の家庭では浸透していない。奄美に残った三献は今では日本の食文化の財産となっている」と説明する。鶏飯も王家の料理で沖縄の人々は食べていない。琉球、薩摩。いずれもその歴史で頂点に君臨した人々の食を奄美では先人から受け継ぎ、郷土料理として定着している。「食から見える奄美の歴史。そこにあるのは、琉球・薩摩どちらも混ざったハイブリットな食文化であり、根付いていることを誇りにしたい」(久留さん)。歴史から浮かび上がる特性だ。
■圧政が生んだ食文化
奄美群島を統治し支配下に置いた薩摩藩が、財政政策として取り組んだのが糖業の導入だ。当時の大島代官所が大和浜の横目(役人)を琉球に派遣し、製糖法の研修をさせ、持ち帰ったサトウキビの種苗を植え、製糖法に取り掛かったのが始まりとされている。代官所の奨励の下で製糖業は急速に発展し、製糖法移入から20年たった頃には、奄美大島における藩の黒糖買い上げ量は113万斤になったと言われている。
藩の財政収入を増加させるため利益を独占する専売品となった黒糖。島民は「黒糖地獄」と呼ばれる過酷な労働を強いられ、田畑はサトウキビ畑に変わった。コメ、イモの作付けが十分にできない藩による圧政。食糧難の時、救荒作物として島民が命をつないだのがソテツだ。
「1月2日の仕事始め、家の近くで土を掘り起こし、ソテツの苗を入れてかごのような物でかぶせたとされている。ソテツが重要な食物であったことを物語る風習ではないか」と久留さん。ソテツには雄と雌の株があるが、雄花の花粉をつけた雌花は秋に「ナリ」と呼ばれる赤い実をつけるが、食用にしたのはこのナリだ。旬は秋~初冬。
『奄美の食と文化』ではソテツの実を割って作るナリ粉について紹介しており、「ソテツの実を二つに割り皮(赤い部分)を除いて臼=うす=で挽=ひ=き、これを水につけて何度もさらし、底に沈んだものを乾燥させる」とある。水につけて何度もさらすのは、ソテツにはサイカシンという毒が含まれているため。「幕末の1850年頃には毒を抜いて食べていた」という記述もある。
ナリ粉を原料にして食したのが「ナリがゆ」「ナリみそ」のほか、「ナリカン」がある。久留さんによると、あまり知られていないナリカンはお菓子で、上餅粉、黒糖、ナリ粉を混ぜてこね、形を整えて蒸したものという。
救荒作物だった頃、「ほんの少しでもコメが入っていれば上等だった」というナリがゆ。でん粉が豊富でコメの代わりに主食にし、お腹を満たしていたが、久留さんは著書の中でハンダマ(スイゼンジナ)、ヨモギの葉、クコの実を入れて栄養たっぷり色鮮やかな「薬膳ナリがゆ」の作り方を記載し提案している。これならヘルシーメニューの一つとして現代も受け入れられるかもしれない。
ソテツから採れるでん粉はナリからだけではない。胴(シン)の部分を切り刻んで採取できるものの、「シマ唄に『ドゥガキはこぼせ』という歌詞があるほど、苦くておいしくなかったようだ。臭いもあったらしい。奄美の四大主食をランク付けすると、コメ↓イモ↓ナリ↓ドゥガキとなる」(久留さん)
ところでソテツを食したのは奄美だけではない。沖縄でも食べている。同県の資料には「大正末期から昭和初期にかけての恐慌は、沖縄では『ソテツ地獄』と呼んでいる。当時の沖縄の人口の7割が暮らしていた農村部では、極度の不況のためコメはおろかイモさえも口にできず、多くの農民が野生のソテツを食糧にした。毒性を持つソテツは、調理法を誤ると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹(胴)で飢えをしのぐほかないなど、農村は疲弊しきっていた」とある。
沖縄の「ソテツ地獄」に対し、奄美は「ソテツは恩人」と紹介しているのが、『聞き書き・島の生活誌(2)ソテツは恩人 奄美のくらし』(盛口満さん・安渓谷貴子さん著)。「ソテツは自分らの恩人だからね」「ソテツで生き延びました」といった奄美の人々の声を収録している。沖縄のシマ唄研究者の中には「沖縄ではソテツ地獄という言葉があるようにソテツのことを否定的に捉えることが多いが、奄美では『ソテツガナシ』というふうに尊称または愛称で呼ぶ」として両地域の対照性を伝える意見もある。
食糧難を救い、〝恩人〟であるにもかかわらずソテツが奄美大島では失わられようとしている。ソテツの幹や葉に寄生し、吸汁する害虫である外来カイガラムシ(和名・ソテツシロカイガラムシ)によって。当初は名瀬港周辺で感染被害が確認されたが、奄美市や龍郷町といった北部だけでなく、南部にまで被害が全域に拡大。青々とした葉が黄色や白に変色、枯死している被害木もあり、もはや健全な葉を見掛けることがほとんどできない状況だ。
植樹された街路樹だけでなく自生などの群生地にも被害が及んでいる。観光地にもなっている龍郷町安木屋場、奄美市笠利町あやまる岬観光公園など。龍郷町は町が多額の予算を計上して対策に乗り出しているものの、群生地を維持できるか見通せない。久留さんは訴える。「ソテツがなかったら、私たちは存在しなかったかもしれない。薩摩藩時代などたびたび飢饉に見舞われ、島民は集団餓死寸前だった。それを先人が潜り抜けることができたのはソテツがあったから。ソテツを大事にしなければならない。他に食べるものがなくてソテツにすがったのだから。奄美の人々の命を救ったソテツ。失ったら一つの歴史が消えることになる」