第62回富山丸戦没者慰霊祭

遺族団39人と地元合わせ約170人が参加した第62回富山丸戦没者慰霊祭(円内は作文朗読の竹田さん)=19日、徳之島町亀徳

鎮魂と平和祈る
児童生徒らも参加
徳之島町亀徳 戦後80年

 【徳之島】太平洋戦争末期の1944(昭和19) 年6月、徳之島町亀徳沖で撃沈され3724人が犠牲となった輸送船富山丸の惨劇から81年――。第62回富山丸戦没者慰霊祭が19日午後、慰霊碑のある同町亀徳「なごみの岬公園」であった。全国の遺族39人に初参加の地元児童生徒ら関係者合わせ約170人が参加。鎮魂と恒久平和を祈り、語り継ぐ使命感も新たにした。

 輸送船富山丸(7500㌧級)は4千人余の将兵と燃料など物資を満載して南下中の同年6月29日午前7時過ぎ、亀徳沖約3㌔の海上で米軍潜水艦の魚雷によって撃沈された。多くの将兵と乗組員が船と運命を共にし、積み荷の数千本のガソリンドラム缶が浮上して爆発炎上。海上に脱出した人々は猛火に襲われるなど3724人が犠牲に。船舶関係では戦艦大和など旧日本海軍第二艦隊(45年4月)、豪華客船「タイタニック号」(1912年4月)などと並ぶ〝第1級の惨事〟とされている。

 少ない生存者の一人だった三角光雄氏(故人)が私財を投じて64(昭和39)年6月、悲劇の海を望む亀徳の丘(現・なごみの岬公園)に慰霊碑を建立。全国屈指の結束力を誇る全国遺族会も育成。徳之島町当局や商工会など関係団体、住民たちの協力で慰霊祭を継続。遺族(子世代)の高齢化もあり昨年の〝八十回忌〟で「最後の慰霊祭に」の声もあったが、「ご遺族の参加が一人でもおれば」(同町)と継続している。

 その第62回慰霊祭には四国4県(愛媛・香川・徳島・高知)や大分、宮崎、鹿児島各県、関東地区の遺族団39人が参加した。同日朝の下りのフェリー船上では悲劇の海の旋回協力も得て洋上慰霊祭も実施。午後2時からの慰霊祭には、平和学習も兼ねて亀徳小と亀津中の児童生徒代表らも初めて参列。同小5・6年生約30人による人権尊重に絡めた合唱「とり」で開式した。

 全員で黙とうを捧げ、高岡秀規徳之島町長は慰霊のことば。戦後80年の節目に遺族会・地元住民・町などの協力で慰霊祭が続いた経緯を交え、「戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の重要性を語り継ぐことが大事」。遺族会参拝団の徳永孝彦さん(80)=宮崎市=は「世界のどこかで紛争が起きていますが、日本は平和です。しかし油断はできません。子や孫たちが紛争に巻き込まれることなく、永久に平和であることを願っています」とも述べた。

 各県遺族会ごとに献花し、残された家族たちの近況も報告。「この平和を後世に伝えたい。徳之島は遠いが、温かい島で、親戚の家に帰ってきたよう。島の発展と皆様の幸せを祈ります。また来ます」など感謝もつづった。

 続いて、昨年の第27回鹿児島県小学生作文コンテスト高学年の部優秀賞を射止めた竹田百笑(ももえ)さん=当時・岡前小6年、現在鹿児島純心女子中1年=が同作品「戦争を忘れさせないために」を朗読。80年前に身近な青い海で起きていた富山丸の悲劇、遺族の深い悲しみなど学びを通し、「平和のために私ができることは、戦争の事実を知ること。そのことが、人権侵害の最たるものを考えるきっかけにもなる」と主張。感銘と称賛の拍手を浴びた。

 同遺族会育ての親である故三角光雄氏の顕彰祭と、「疎開船武州遭難の碑」への献花も併せて行われた。