「黄色い墓石」の謎解説

奄美群島に多く残る山川石を使った墓石の特徴を語る松﨑大嗣学芸員(29日、奄美博物館)
龍郷町幾里の龍宮(たつみや)家の墓地の一角にある「五輪塔」。水輪の部分は風雨による浸食で破損している(山田朋子さん提供)

指宿市考古博物館・松﨑学芸員
黒糖交易の山川海商が運搬
徳之島は独自に変化

奄美博物館主催の2025年度第3回講座「薩南諸島に広がる黄色い墓石の謎~奄美群島における山川石調査を中心に~」が29日、同館研修室であった。指宿市考古博物館「時遊館(じゆうかん)COCOはしむれ」の松﨑大嗣(ひろつぐ)学芸員(36)が、奄美群島の墓地に数多く残る山川石を使った墓石「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」「五輪塔」「石廟墓(せきびょうぼ)」の研究成果から歴史の背景を語った。約30人が聞いた。

松﨑学芸員が、山川石をテーマに講演を行うのは昨年2月の同講座に続き2回目。今回は、講演以降新たに調査した徳之島の阿三墓地、伊仙墓地、喜界島の志戸桶墓地などの墓石の分析や、山川港を拠点とした海商の記録から奄美群島に山川石が流通した背景を読み解いた。

山川石は、指宿市山川港に近い二つの山で産出する黄色い石。柔らかく加工しやすいことから墓石や石像、石塀などに使われてきた。かつては「溶結凝灰岩」とされてきたが、24年の調査で「沸石岩(ふっせきがん)」であることが分かった。 14世紀頃から南薩地方を中心に供養塔として利用されており、18世紀江戸時代に墓石としての利用が広がったとされる。

墓石の形は3種あり、基壇、塔身、笠、相輪で構成される「宝篋印塔」、石を球形に削った水輪が特徴的な「五輪塔」、家形の墓「石廟墓」に大別される。

島津家宗家では、18代家久の代で「福昌寺型宝篋印塔」といわれる規格を確立。以降、藩主墓や藩主夫人の墓は統一されたものが使われ、藩内における階層の最上位にあることが誇示されてきた。

一方、島津一門家の今泉島津家でも同じ規格が使われていることに着目した松﨑さんが、鉄の含有量を測る「帯磁率計」で調べたところ、同家の墓石は山川石ではなく見た目が類似した「池田石」が使われていることが判明したという。

奄美大島での調査では、奄美市笠利町の伊家墓地、住用町の住家墓地、瀬戸内町の芝家墓地、同町加計呂麻島の林家墓地全てで山川石が使われていた。

本土の墓石にはない特徴も見受けられた。住家は、家紋のほか縁起のいい「吉祥」の装飾(鶴・梅など)をふんだんにあしらい、芝家では中国の故事をモチーフにした「孟宗(もうそう)伝説」が彫られていた。

徳之島では石廟墓が多く、屋根も方形(ほうぎょう)型が多いのが特徴だという。サンゴ石を使用した墓石も多数確認され、考古学で言われる「模倣現象」が出現していると分析した。

また、山川石と類似しているが組成の違う「モトゴウ石」が使われた墓石があるため、「徳之島の石工が独自に変化(模倣)させていった」可能性を指摘した。

江戸時代、国際貿易港として中国との交易の拠点として栄えた山川港。海商の記録が残っており、その中には「大島から砂糖樽(サタダル)2300挺ほど積んだ」「大島はよか日和なら一昼夜で行ける」などの記載があることから、松﨑さんは「與人(よひと)や横目と呼ばれた島役人は、山川に墓石を注文し、海商の船で運んだ。徳之島や喜界島では、在地墓石生産を狙った石工の存在が想定できる」と話し、「なぜ黄色墓石が好まれたのかなど、解明しなければならないことは多い。山川には資料が残っていないが、奄美博物館などに残る資料で解明できるのではないか」と話した。

龍郷町秋名から参加した山田朋子さん(58)は「母方の墓所にも伊家と同じ型の墓石が残っている。自らのルーツをたどる時間を大切にしていきたいとの思いを強くする機会となった」と話した。