35年前に行った被爆者からの聞き取りを示すノートを手にする佐竹京子さん
広島に続き、長崎に原爆が投下されて9日で80年。戦時中、奄美からも大島紬を織っていた10歳代後半~20歳代前半の女性たちが、手先の器用さを見込まれて、「大島女子挺身(ていしん)隊」などとして長崎市の軍需工場などに動員され、被爆した歴史がある。35年前の1990年、こうした女性たちから聞き取りが行われている。社会的に認知されるようになってもなお「語りたくない」「隠したい」という強い思いが記録されており、被爆による身体の不調を抱えながらも差別や偏見との戦いだったことが浮かび上がる。
聞き取りに取り組んだのは奄美市名瀬の佐竹京子さん(83)。奄美出身者の被爆に関する確かな記録は残っていないが、徴用や動員(派遣)などにより奄美から長崎に行ったのは約1200人とされ、このうち約200人が原爆で死亡、帰島したのは約500人とされている。こうした奄美大島の生存者を訪ね歩き、ルポルタージュとして発表されたのが上坂冬子さんの著書『奄美の原爆乙女』(1978年発行)だった。
「この本を知り、読んで、こういうことがあったのかとショックを受けた。戦後の奄美の女性史をまとめようと数人でサークルを立ち上げていたが、本に登場する方々に実際に話を聞きたいと思い、訪問を重ねた」。佐竹さんが実際に会うことができたのは4~5人。上坂さんの著書にも登場する折田サチさん、泉ワカさん、川上ミナエさんら。大正生まれ、当時は60歳代だった。聞き取った内容はノートに記録しており、丁寧な文字で現在も残る。
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「奄美の女性史」のタイトルがあるノート。1人の女性は笠利町辺留出身で大正15年生まれ。被爆時の年齢は19歳。同じ笠利町出身のもう1人の女性の証言で、笠利の役場から名瀬までトラックで行き、鹿児島本土までは船で、鹿児島から長崎までは汽車で移動したという。「名瀬から約100人、笠利からは14、5人が動員された。うち死亡(被爆による)が6人」。女性の言葉として佐竹さんは記録している。
女性は長崎にあった軍需工場で魚雷(ぎょらい)を磨く仕事に従事していたという。爆発によって破壊する兵器であり、神経を指先に集中させる大変な作業だ。「とてもじゃないけど私にはできない」(佐竹さん)。8月9日午前11時2分、原爆投下。「落ちた瞬間、何があったのか分からなかった。空襲警報が鳴っていたので(攻撃のことは把握されていると)安心していたのに」と佐竹さんに語った女性は、原爆によって味わった恐怖から逃れることができない心理状態をこう表現した。「花火、雷、稲光の音が怖い。大っ嫌い。夏祭りの花火を子どもたちは楽しみにしていたが、一緒に見ることができなかった」
別の女性は妊娠中だった。夫は長崎の造船所で勤務。市内にあった病院の玄関で受け付け中、被爆。病院の屋根が落ちる被害が起きたが、女性は建物から離れ木の陰にいたため無事だった。しかし手や耳に傷(ケロイド)が残った。その後、女の子を出産したものの、発育しなかったという。奄美に戻ってからは悲劇を乗り越え男女2人ずつの子どもに恵まれた。
「幸いにも生きて戻れたが、女性たちは被爆の後遺症を抱えていた。貧血で疲れやすい、動けない、起きられないなど深刻な身体の不調を聞いた。専門的な治療を受けることなく古里で畑仕事などに従事していた」と佐竹さん。上坂さんの著書によって被爆者が奄美でも認知されるようになった。それにより長崎の被爆者の会の働き掛け、上坂さんの取材のきっかけとなった女性を中心とした原爆被害者手帳友の会の結成によって、奄美の被爆者にも手帳が交付され、医療費などの支援が実現した。これまで救済の手が差し伸べられることがなかった状況が一変し、佐竹さんは「上坂さんのおかげ」という言葉を何度も聞いたという。
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生前の被爆者の言葉は貴重な記録だ。だが、佐竹さんは活字として残せず。「皆さん多くのことを語ろうとしなかった。『上坂さんの本に書いてあるから。それを読んでください』と話すばかりで、あまり話したくないという感じだった。もっとたくさんの証言を記録したかったが、多くの人から話を聞くことがかなわなかった」。こんなエピソードもあったという。「最後の慰霊祭開催ということで女性史サークルのみんなで行こうとしたところ、私1人ならかまわないが、あまり来てほしくないという姿勢を今でも覚えている。騒いでほしくないという雰囲気だった」
なぜだろう。「被爆したという事実。これによる差別や偏見を警戒していたのではないか。世間に知られたら、怖いという思いが強かったのでは。『なんであんたが来るわけ』という言葉も受けた。家族、親族などへの影響を避けるためにも差別との戦いでもあったのではないか」。佐竹さんは続けた。「今年は被爆80年、戦後80年。皆さんから話を聞いた35年前は被爆や戦争は過去のことだった。今は戦後だろうか。ウクライナやガザで戦闘が続き、子どもたちなど多くの民間人が死に直面し犠牲になっている。戦禍の真っただ中だ。被爆につながるような核兵器の使用も取りざたされている。想定されるという台湾有事によって奄美が位置する南西諸島も巻き込まれ、被爆、戦争はこれから起きることかもしれない。過去のこととして片付けるのではなく、平和であり続けるには何が求められるか一人一人が考えるべきではないか」
被爆を公にできず、後遺症に苦しみながらも生きてきた人々の存在。歴史を繰り返すか、その分岐点は事実の認識、受け止めにある。

