戦後80年 出身者が語る戦争 中

2歳のときに父母と撮った写真を手にする大江さん


42年前に母と訪れた台北の小学校の前で

台北育ち、うなるような空襲警報

大江修造さん(龍郷町出身、昭和13年生まれ87歳=小平市在住)

〈生後2か月で台湾(台北)へ。兵隊に憧れた子ども時代〉

 祖父(国太郎さん)は、間口11軒の按商店を生業にしていた。今でいえばスーパーで、当時は金回りが良かったようです。東大に進学した長男の父・国男に大金を送り支えていた。その父が卒業後に台北に教師として赴任。僕が生まれて2か月の時でした。ですから僕は1944(昭和19)年に台北幸国民学校に入学したのです。朝礼後は、教育勅語。教師は皇居のほうに向かい手袋をして深々とおじぎ。「大和民族は優秀だ」と教え込まれたものです。日本の植民地だった台湾では、食べ物もおいしく困ったことはなかった。空襲は頻繁にありましたよ。その頃の子どもにとって兵隊は誇り。ですから男の子は『大きくなったらロッキード、グラマンをやっつけるんだ』と話し合っていたものです。まともに通ったのは3か月ぐらい。ところが、日本に帰国していた父の乗った船が、昭和18年3月19日に台北の基隆沖で魚雷に当たって沈没、34歳で死亡。船室で本でも読んでいたんじゃないかな。戦死でないため恩給も出ない。お袋(千鶴さん)は外地で途方に暮れて、嘆き悲しんでいました。それから大江一家の人生は急展開するのです。
 
〈台北とは正反対の日本の食。まるでガザ地区のよう〉

 21年3月、台北から1週間かけ船で和歌山県の田辺港へ。粗末な貨物船はものすごい数の人でぎゅうぎゅう詰め。悪臭が漂い、途中で何人も死んだ。生き地獄のようでした。食べ物だって、よくて握り飯。台北では考えられないものでしたね。上陸したら頭からDDT(有機塩素系殺虫剤)を掛けられた。母、妹と僕の3人は、品川にあった引き揚げ者の相談施設で1泊、目黒の実家へ。命からがら引き揚げてきた者に「砂糖はないか」と盛んに担当の職員が声を掛けてきた。引き揚げ者の我々によく言うな、と思ったものです。台北はのんびりしていたのに、日本人はせこいな~と感じましたね。目の色が変わっていました。ガザ地区で、食料を我先に奪い合っている光景がメディアを通じて伝えられます。あれとよく似た感じでした。

〈感慨深い8月15日。中国軍に回収された武器〉

 山手線の1両目が進駐軍専用車。どんなに混んでいても日本人は乗れない。そこだけアメリカ。「あ~日本は負けたんだな」と実感する光景でしたね。8月15日になると、台北の風景が思い出されます。終戦と同時に、街角には日本兵が持っていた武器が山積みされていました。確か蒋介石が来たはず。中国本土の軍隊が回収したと聞いています。それと祖父(国太郎さん)が、龍郷の畑で空襲の弾に当たって破傷風で20年のその日に亡くなっているのです。父の弟、2人も戦死しているので忘れられないですね。機銃掃射に出くわした恐怖も強烈な記憶です。

 台北の高等女学校の教師だった母の希望と亡父の四十回忌として、昭和58年に台北を再訪しました。街の風景はすっかり様変わりしたようでした。私が通った「幸国民学校」の建物は変わらずあり、入学後の3か月間が戻るようで感動しました。学校名が「幸安国民小学」になっており、感慨深かったですね。

 「うなるように聞こえた空襲警報は、今も耳の奥で危険にさらされた記憶として残っています」と語る大江さん。次回は、空襲について2人の証言者が登場する。