シンポジウムでは、田中一村と奄美和光園の関わりについて語られた(12日、奄美市名瀬のアマホームPLAZA)
奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や動物を独自の画風で描いた日本画家・田中一村の生涯と、活動の拠点となった国立ハンセン病療養所「奄美和光園」での暮らしを振り返る「フォーラム奄美25 奄美和光園と田中一村」が12日、奄美市名瀬のアマホームPLAZA(市民交流センター)であった。シンポジウムには、和光園の元事務局長として一村と交流のあった松原若安(じょあん)さんの子息・千里さんらが登壇。地域に溶け込み、創作活動を続けた一村の実像を伝えた。約150人が耳を傾けた。
主催は、全国の田中一村ファンと奄美をつなぐことを目的に、作品の顕彰活動や「美術館を生かしたまちづくり」に取り組んでいる「NPO法人未来へつなぐ田中一村」(久留ひろみ理事長)。
基調講演では、両親が奄美市名瀬大熊の出身だという藤浩志秋田公立美術大学大学院教授が「生きるための創造的遺伝子~美術館が醸成する地域の力~」と題し、自身がプロデュースしたアートプロジェクトを紹介。
新たな芸術を作り出すためには〝創造的遺伝子〟が地域に根ざす環境が大事などと唱え、「一村は、時代に抗(あらが)い続け、常識を超えた作品を創造した」などと評価した。
シンポジウムには、2011年から同園園長を務めた医師・加納達雄さん、元職員の松原千里さん、田中一村記念美術館の上原直哉さん、同NPOアドバイザーで一村の出版物を手掛けている福井篤子さんが登壇。久留理事長がコーディネーターとなり、それぞれの立場で語り合った。
松原さんは、一村のひととなりを「移る病気とされていたハンセン病患者が入れたお茶を躊躇(ちゅうちょ)なく飲み、すぐに入所者に受け入れられた」などと話した。
加納さんは、和光園設立の経緯を説明。「反対運動があったが、医師が地区の往診に出向くことを条件に設立に至った」と話した。さらに、「園内に組織された自治会は、患者の暮らしや入所者の今後について、一般に知ってほしいと門戸を開く決断をした」などと説明した。
これに対し、松原さんは「和光園の園内には、〝一村の森〟などと称する場所はない。ここは、国の政策に翻弄(ほんろう)された人が暮らし、命を落とし、安置されている悲しい場所。今しばらくでいい。そっとしておいてほしい」と訴えた。
この発言の背景には、「和光園は開かれている」という言葉が独り歩きし、観光客がレンタカーで乗り付ける現状があるという。
松原さんは「今いる入所者は、(和光園開設の)昭和18年からの、多くの人の思いを背負って生きている。安易に足を踏み入れてはいけない場所もある」と切々と語った。
聴講した80歳代の女性は「一村の絵に描かれた神秘の森といったイメージで興味はあったが間違っていた。松原さんの思いが胸に刺さった」と話した。

