直言 民間の視点から ■3■

生まれ育った銀座通り商店街。現在もその一角で事業を行い、通り会活動にも長年関わり続けている森幸一郎氏(「ぎんざばし」の前で)

銀座通り入り口 洋服店から不動産業へ
災害面で危険空き家対策急務
森幸一郎氏インタビュー

 『名瀬市誌』(下巻)には商業について、こんな記載がある。「明治6年、大島諸島に金銭通用許可、ついで明治8年、貨幣使用が許可された」。地租条例実施後は、多くの鹿児島商人が渡来して出張店を各島に設け、島の生産品である砂糖(サトウキビが原料)を購入し、日用品を島民に売り込むようになったそうだ。これが商業の始まりだろうか。群島最大の商業地として発展したのが、奄美市名瀬の中心部にある商店街(奄美なぜまち商店街)。通り会連合会のホームページによると、島民に生活必需品を安定供給するため戦後混乱期に結成されたという。そんな歴史ある商店街で生まれ育ち、連合会の会長職も経験、現在は銀座通り商店街の会長を務めるのが森幸一郎氏(61)。商店街から見える「まちづくり」の在り方を聞いた。

 ―銀座通りの入り口にあるビル1階に事務所を設け、不動産業を営んでいる。開業に至った経緯は。

 「不動産業を始めたのは私からだが、基礎は父親が築いたと言っていい。このビル(マルイチビル)を開設し、隣りには洋服店(ブティック四季)を開業、現在のビル(四季ビル)として残る。ここは1~2階がテナントで、2階以上が住宅物件。自分の物件の賃貸なら免許は必要ないが、不動産業を営む商店街の仲間たちが宅建(宅地建物取引士=不動産取引の専門家)免許を取得するようになり、父親から『今は洋服屋をやっているけど、(不動産業は)いい仕事だから』と勧められ、宅建の資格を取ったのが始まり」

 ―ご両親が始められたという洋服店は今でも広く知られている。その継承ではなく転業の選択となったのか。

 「当時は不動産業者が少なく、洋服店をしながら両方できる時代だった。私が資格を取得したのは1998年で、その頃は独学(参考書を購入し問題を解き送付する通信教育)で対応できた。今はかなりレベルが上がっていると聞く。就職に有利、あるいは専門資格としての評価から金融機関やコンサルティング業者も社員に宅建資格を取得させている」「洋服店と不動産業の両方から、不動産の方へ歩み出す転機となったのが両親のほぼ同時期の死去。2005年と06年だった。顧客全ての好みが分かるなど絶対的存在の母親を失い、洋服店を継続できるか。従業員を含めて家族会議を開いた。インターネットが普及し始めた時期とも重なった。ネットを通して直接、自分が欲しい品物が購入できるようになり、仕入れて売るという物販の将来性が見通せない。このままでは親が残した財産や資産をすり減らしてしまう。この仕事はやめよう、これが結論だった」

 ―ネットの普及が商業に影響を与えたことを示している。ここから不動産業に傾注へ。

 「免許(宅建)は取ったものの、全くやってなかった。当時の支部長から、こう言われたことを覚えている。『いい加減に真面目にやれよ』。家族を養い生きていかなければならない。不動産業の老舗だった妻の実家で実地を通しイロハを学び、さらに宅建の免許取得者が必要だからと知り合いの所で3年間お世話になった。いろんな皆さんに助けられ、そろそろと独立したのが18年。自分の物件の1階がタイミングよく空き、そこに事務所を設けた」「ここまで不動産業をしてきて切実に感じるのが空き家問題だ。そのまま売れる物件、権利が確定していない物件、まだまだ使えるような物件があるが、一番スピード感を持って対策に取り組む必要があるのが危険空き家。建物が崩壊しそうな状況から台風などの強風で屋根が飛んでくるかもしれない。放置されたままなのは周辺の住民にとって身の危険を感じること。周辺の物件管理者の責任から、こちらが対策に乗り出したくても他人敷地に許可なく入れない等の規制がある。行政の力を借りるしかない」

 ―確かに公共性のある問題だ。行政に対し求めたいことは。

 「所有者と話をして理解を求めての対応は行政にしかできない。我々が直接やると逆にこじれてしまう。危険空き家対策は国も関心を示し、固定資産税の優遇(家屋への)解除などが進められている。危険空き家が解体され更地になれば新しい土地需要が生まれ、住宅建築などによって経済が循環する。そのまま放置されたら、常に災害の危険性がある」「奄美市の担当課は、こうした空き家問題に対する協議で我々(宅建協会)の意見も求めるようになった。なぜ対策を進めてほしいかという根拠を示していきたい。そのためにも会員の意見を吸い上げ、近隣住民の声を行政に届けたい。危険空き家が周辺にあるということで物件への入居をためらう事態が起きている。景観上も良くない。行政が間に入り、所有者の理解を得る取り組みをお願いしたい」

 ―家業だった洋服店から変わったものの、引き続き商店街で事業を継続している。

 「生まれ育った場所。たくさんの思い出がある。こんなに素晴らしい所は他にないというのが実感。多くの知り合いがいる。人の声も響きにぎやか。なぜまち(商店街)は市役所も近く利便性があり、和光トンネルもできたことで、どこに行くのにも便利」「私が生まれた頃の商店街は人であふれかえっていた。銀座通り商店街は特に。生まれも育ちも商店街というのは理由がある。ほとんどの店舗が自宅も兼ねていた。1階がお店、2階が住まいというのが基本だった。お店の裏に台所・居間があり、そこで食事をした。また子どもも多く、商店街全体が家族のようで、子どもは自宅に限らずいろんな店舗に出入りし、友達と遊んだり、そのまま食事もするなど、どこでご飯を食べているか分からない感じだった。人に囲まれて育ち、常ににぎやかだった」

(つづく)