父親が中国で経験した戦時中の記憶、敗戦後の島の様子、平和主義の奄美からの発信の必要性などを語った福島義光氏
公立中学校の社会科教員として教壇に立った福島義光氏(82)は、民俗学の研究者でもある。1984年度鹿児島県育英財団による国内留学により筑波大学で専門的に学び、日本民俗学会会員を務める。留学中は古文書演習で断簡(書物の一部)についても学んだ。古文書の中の隻語(短い言葉)にこだわり、「断簡隻語」のタイトルで、4月から奄美新聞に連載している。8月3日付の連載(13回目)では「アマネシア論」を取り上げた。奄美群島(アマネシア)の始祖「アマミキョ」の平和主義について、女性(姉妹=ウナリ)には男性(兄弟=エヘリ)を守護する神聖な霊力があるとされる「ウナリガミ信仰」などから、「命を産み育てる女性原理は争いを忌避する平和主義。アマミキョは平和主義の象徴そのもの」と説いた。15日は「終戦の日」。日本国内で二度と戦争を繰り返さないため、父親が中国で経験したという侵略戦争の愚かさ、敗戦から復帰を果たすまでの島々の様子、奄美から発信する平和主義の意義を聞いた。
――終戦直前に生まれている。
「1944(昭和19)年6月22日生まれ。1年と1か月余りで終戦を迎えたが、前後して様々な節目がある。まず終戦の年である45(昭和20)年6月23日は、国内で唯一地上戦が行われ、多くの民間人が戦闘に巻き込まれて命を落とした沖縄の敗戦の日(慰霊の日)。太平洋戦争が没発した41年には誕生日と同じ6月22日に、ヒトラーが率いたナチス・ドイツが旧ソ連に侵入し独ソ戦(人類史上全ての戦争の中で最大の死者数を計上したとされる)が起きている」「社会科の教員だった当時、子どもたちに採点外のテスト問題として出題したことがある。『1944年6月22日は何の日か』。私の誕生日だが、わざと聞いた。この誕生日を中心にして翌年の沖縄戦の敗戦、4年前の独ソ戦の始まりを子どもたちに伝えた」
――終戦時は1歳。もちろん戦争を知らない世代だが、父親の戦争体験について聞いている。印象に残っていることについて。
「大和村津名久出身の父親は大正5年生まれ。戦時中、20歳代の頃は中国に滞在し兵役に就いていたと聞いている。鹿児島県警の幹部(中央署の署長等)を務めた父親の伯父がいる。父親は私が生まれる2~3年前に中国から引き揚げたが、その伯父から『男はみんな兵隊にとられて国内は社会不安が増している。中国から帰ってきたら治安を守るため警察官になれ』と勧められた。戦時中は鹿児島県警。敗戦後、奄美は米軍占領下となったことから父親は琉球警察へ。復帰後は再び鹿児島県警の警察官となり、母親と共に私たち家族は父親の勤務先となった奄美の各島々(トカラ列島の中之島を含めて)、さらに県本土の警察署への赴任もあり本土でも暮らした」「そんな父親から聞いたのは中国での戦争体験。太平洋戦争ではなく、その前に起きた支那事変など日本の侵略に伴う日中の武力衝突だ。尋常ではない経験を数多く重ねている。歩いていたところ、川のぬかるみの所で足に違和感があったという。父親が踏んでしまったのは日本兵の腐敗した遺体だった。踏んだ瞬間、遺体からウジが噴き出したそうだ。父親の背中には大きな火傷の跡があった。理由を聞くとこう言った。『疲れて眠っているとき、背中に熱さを感じた。自分の上にたくさんの遺体が積み重ねられ、火を付けられていた』。同じ日本人の無数の遺体。死者に対する尊厳もなく、まるで物のように扱われ処理されたのかもしれない。父親のこんな言葉を覚えている。『自分たちはひどいことをした』」
――それはどういうことか。
「中国人に対する日本兵の行為だ。農家に行って面白がって茅ぶきの小屋に火をつけて燃やしたり、泣き叫ぶ子女の手足を複数で抱え上げ、『イチ、ニイ、サン』と掛け声を発して、生きているのに火の海に放り投げたという。父親は続けた。『日本人なら命ごいをするのに、中国人の男たちは騒ぎわめきたてることもなかった。いかにも大陸的というか、腹を決めているというか…』」「戦時中の中国での経験を話した際、よく言っていたのが『戦争は狂気の沙汰。するもんじゃない』。慙愧の念からの本心だと思う」
――幸いにして日本は戦後(今年で81年)が続いている。ところが世界に目を向けると大国の権力者などによって自国優先、国際協調棚上げの他国攻撃が繰り返され、子どもたちを含む多くの民間人が犠牲になっている。防衛のためとして核兵器の使用もいとわない情勢だ。まるで新たな世界大戦の前夜のよう。「戦争は狂気の沙汰」。多くの世代が共通認識を持って刻み続けなければならない言葉だと思う。敗戦後の歴史をたどりたい。翌年、46年のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の二・二宣言によって、北緯30度以南の南西諸島が日本本土から行政分離された。
「戦時中も米軍占領の前後にも、父親は警察官として勤務した。民間に自警団ができたというのは事実誤認。裁判所業務や警察業務が中断した事実はない。小学校に入学するまで私は、父親の赴任の関係で四つの島を訪れた。最初に訪れたのがサンゴ礁の島である沖永良部島、次が赤土の島である奄美大島の古仁屋、続いて火山の島の中之島(トカラ列島の十島村も北緯30度以南に位置し奄美群島同様、米軍占領下)で、一時的に名瀬を経て再びサンゴ礁の島の喜界島だ。そこで本土復帰したことから、喜界では復帰前と復帰後を体験している。復帰後は鹿児島県警に編制され、1回目の異動で父親が赴任したのが当時の加世田署だった」
――就学前にサンゴ、火山、赤土とそれぞれに特性がある三つの島での生活を経験した。三つの島は風土が異なると思うが、共通することが一つある。幼いながら敗戦当時の島の様子を見聞したということ。敗戦が島の暮らしに、どのような「傷跡」を残したのか、当時の記憶を思い起こしていただきたい。
(つづく)

