直言 ~民間の視点から~10 福島義光氏インタビュー(終戦特集)

直言 ~民間の視点から~10 福島義光氏インタビュー(終戦特集)

数多くの戦争遺跡がある瀬戸内町では、町教育委員会によって奄美大島要塞司令部跡の試掘調査が古仁屋高校グラウンドで行われた(2025年8月)

古仁屋、一面焼け野原
中之島で密貿易船が税務官拉致

「沖永良部島で最初に着いたのは知名だった。サンゴ礁の割れ目に艀が接岸し、そこから上陸した。桟橋のようなものがあり、周囲にはサンゴ礁の風景。すぐ後ろの高台にあった小学校裏の民家を借りて家族で暮らした。幼い私を見て崖を登って来る子どもたちも多くすぐ仲良くなり、遊び友達ができた。和泊では水源地である暗川(クラゴー=地下河川を伴う石灰岩洞穴)に水くみに行ったり、島で一番高い大山で奄美大島出身者が焼き物を作っていたので、父親に牛車で連れられて出かけ食器類を購入した。戦後すぐということを感じない日常の暮らしが沖永良部島にはあった」「一転したのが古仁屋だ。道路はあったものの一面焼け野原。廃墟のような建物ばかりで、遮るものがないため奥の山まで見渡せた。警察署の建物はバラックの2階建て。近くに屋根のない工場の建物があり、そこに幾人かの警察官は居住した。私たちが暮らしたのは、廃墟に立つ給水塔近くの民家で、目の前には運動場のように大きな爆弾痕の穴があり、底には水がたまっていたことを覚えている」

――沖永良部島は日常の暮らし、古仁屋は焼け野原や空襲の跡。この差はなんだろう。

「それは瀬戸内町教育委員会が調査、研究している数多くの戦争遺跡の存在が示しているのではないか。古仁屋だけでも奄美大島要塞司令部、奄美大島陸軍病院、古仁屋憲兵分遣隊などの戦争遺跡が存在する。大島海峡には軍艦などが寄港したり、周辺で海軍が訓練したとされている。『軍の重要な拠点』との認識で、米軍の攻撃の対象となったのではないか」

――就学前と幼くても鮮明に残る戦争・敗戦の記憶。古仁屋署から次は中之島派出所に赴任する。ここでは騒動に巻き込まれる。

「奄美群島と共に米軍占領下となったトカラ列島。その北端の島は日本の本土と国境線上。そのため、奄美側からの密貿易船が行き交う密貿易の拠点となった。目の前に諏訪之瀬島が見える中之島派出所に父親は勤務したが、あるとき、口之島から島の青年団が船をこいでやってきた。『大きな船が沖合に来て、本土の税務官(種子島・屋久島に赴任)を拉致している』との急報。父親は琉球警察から支給されたカービン銃と弾薬を手にして、青年団の船に乗り込み口之島に向かった」「奄美大島からの乗務員3人の1隻の船を口之島青年団の船が取り囲み、にらみ合う緊迫した状況にあった。父親1人が該当船に乗り移り、船長室兼操舵室に拉致されていた税務官を解放して、青年団に引き渡したのちに、父親は船の舳先に陣取り、カービン銃を甲板に集めた乗組員に向け見張った。行動を抑えるためだが、隙あらばという顔付で反抗姿勢の者もいた。三日三晩一触即発の事態を融和に変えたのは、父親が口ずさんだシマ唄だった。最初は小さな声だったが、だんだん大声でうなりだすと聴いていた乗組員全員がすすり泣きをしだした。『懐かしいシマ唄を聴いたら、やちゃぎ(やんちゃな反抗的な気持ち)は全くなくなったから安心してくれ』と父親の指示に従順に従った」

――当時、密貿易はは犯罪だったかもしれないが、行政分離による占領下の物資不足で生活の厳しさ、窮状から「本土並み」を求める先人たちの決死の行動と言えないだろうか。

「中之島から一時的に名瀬署での勤務となり、小学1年生は名瀬で過ごした。2年のときに喜界島の警察署に異動となり、湾小に転校した。ここまで復帰前。1年後、3年のときに本土復帰となったことから、父親は鹿児島県の警察官となった」

――中之島は火山島だが喜界島では再びサンゴ礁の島での生活となる。そんな喜界島。戦時中、現在の空港が「喜界島飛行場」として沖縄特攻の前進基地の役割を果たしたとされている。そのため飛行場周辺の中里や湾などの集落は米軍による空襲を受け、大倉忠夫氏の著書『奄美・喜界島の沖縄戦』では「猛爆にさらされ続けた飛行場と隣接集落」の記述がある。(つづく)