直言 ~民間の視点から~11 福島義光氏インタビュー(終戦特集)

「狂気の沙汰」である戦争を繰り返さないため、遺構として将来にわたった保存を提唱する龍郷町赤尾木集落にある無線塔

喜界、血のり付着の野戦病院跡
争いなくす「アマミキョ平和主義」を

「確かに喜界島には戦争の痕跡が残っていた。食事を準備するための焚(た)き付け用の草が飛行場跡に生い茂っていたことから、鎌で刈り取られた草を取りに行くのが日課だった。土俵の大きさぐらいに草を積み上げて置き、枯れたものを家まで運んだ。その際、薬莢(やっきょう)が含まれていたことを覚えている。不発弾もあった。あるとき、父親の勤務する警察署の用務員室で焚き付けをしていたところ爆発し、用務員さんはもちろん署長以下退避となって一斉に外に飛び出したが、退避できず取り残された人がいた。用務員室のかまどに隣り合わせの留置場に収監されていた一人で、大人なのに大声で泣いていた。戦後まだわずか。恐怖心が残っていたのではないか」「喜界島へは私たち家族は名瀬署の警備艇で移動した。湾の岸壁に上陸し母の後を追うように歩き居住する民家に着いた。床の高い大きな家で玄関の踏み上がり板には黒いまだらなシミがべっとり付いていた。案内の人が、この家は戦時中は野戦病院であったと説明した」「縁側や畳の下の床板にもたくさんの血のりが付着していた。戦争で犠牲になった多くの人たちが運び込まれたのだろう。そんな場所に生活していたからかもしれない。母親が大病を患った」

――敗戦後すぐに暮らした三つ(サンゴ礁・赤土・火山)の島での戦争、あるいは行政分離に伴う記憶。警察官の子どもだったからの希有な経験と言えないか。これが根底になり平和教育の必要性、奄美発の平和主義の提唱に結び付く。

「敗戦後の名瀬のまちで今でも脳裏に残る景色がある。小高い高千穂神社から眺めると、大小2本の無線塔が並んで神社から見えた。私にはこれが敗戦後の進駐軍のマッカーサーと並び立つ小柄な天皇陛下の写真のように見えた。残念ながら、今はこの無線塔は名瀬には残っていない。しかし、龍郷町の赤尾木集落には、現在でも、いくつもの無線塔が残り、米軍の攻撃を受けた痕跡もある。それだけに貴重な戦争遺跡として町は保存化を図ってほしい」「教員時代の平和教育は組合活動の一環として行政側から見られていた。プレッシャーがかかると私は『平和教育ではなく戦争教育だ』と一蹴し、平和教育を実践していた。毎日新聞だったかと記憶しているが、分厚い写真集の本に掲載された戦時中の『掲載不可』の残虐な殺りく行為の写真を100枚選んで四つ切り版に拡大し授業教材にした。先の戦争の敗戦の総括や検証を通じて次の歴史を歩むべきだ」「敗因の一つとして挙げたいのが『継戦(けいせん)能力』。これがないのに参戦するべきではない。先の戦争は継戦能力の不足分を精神論で埋めた。だから、負けた。負ける戦争をしてはならない。火山列島日本は自然災害大国だ。『災害は忘れる間もなくやって来る』のだ。こんな現状で継戦能力は蓄えられようもない。今は『戦争どころではない』のである」「奄美の『ウナリガミ』という女性を尊ぶ宗教的理念はその創生神話の始祖『アマミキョ』の女神の世界救済の慈愛につながり、命を産み育む『女性原理の平和主義』の象徴そのものなのだ」

――そんな奄美から平和主義を唱えることに私たちは誇りを持ちたい。

「世界自然遺産に指定された奄美群島の素晴らしい自然という『もの』に、そこに育まれた人文文化の『理念』を入魂するのは、もともと備わっているものであるからこそ、我々凡庸(ぼんよう)の身は『開眼式』というイベントを経ねば実感しないのだ」「奄美群島にはアマミキョの『平和主義』の理念が世界自然遺産と一体となって内包されている。アマネシアの西側大陸は、南だけでなく北でもハルマゲドン(世界の終末)に向かって落ち込む流れが押し寄せていないか。私一人が今、アマミキョの平和主義の旗を振っているような気がしてならない。これからの歴史にあらゆる争いをこの世からなくし、アマミキョの平和主義を世界自然遺産とともに、この島から、世界に広げなければならない思想にしたいと考えている」

◎インタビュー余白

「アマミキョの平和主義」と同時に福島氏が発した、もう一つ印象的な言葉がある。「孫氏(そんし)の兵法」だ。これについて「兵法とあるから誤解も受けるが、これは平和運動。『彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし』(敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない…などの意味)。戦わずして勝つための方法。最良の作戦と言える」との説明を加えた。熟知に向けて相手の立場を理解する。それによって協調できるようになることで平和が実現しないだろうか。(聞き手・徳島一蔵)