戦後80年 出身者が語る戦争 下

奄美市名瀬朝仁のあかさき公園近くにある奄美群島の戦没者を追悼する慰霊塔

「いつ撃たれるのか恐怖」「絶対にしては駄目」

〈米軍機に悪い印象はないが、自国主義だからと忠告される〉

 恵茂一さん(千葉・流山市在住=87歳)は、昭和12年に喜界島で生まれ、名瀬で育った。

 まだ小学校入学前だったと思います。古見本通り(当時の奄美実業高校前の県道)を歩いていたら、山の方から米軍の飛行機が低空飛行でやって来た。周りは焼け野原だったけど、いつ機銃攻撃があるのか分からない。何しに来るんだろうと考えていました。すると一度通り過ぎた飛行機が、戻ってきて「どうだ、すごいだろ」と言わんばかりに機体の胴体部分を見せるように、通り過ぎていくんです。こちらは、怖さを通り越した驚きにきょとんとしている。すると、こちらに向かって米兵が手を上げてあいさつするのです。相手が子どもだと分かったのでしょうか、そのまま帰っていきましたよ。ですから意外と怖さはなかったですね。

 とはいえ、いつ上空から攻撃に転じるか分からないから、隠れました。既に空襲されたことで名瀬は焼け野原状態。ですから、かろうじて残っていた家の風呂場だったと思われるコンクリートの陰、下水道の跡などに隠れました。じっとして動かないようにして、通り過ぎるのを待つのです。何度もそんな目に遭いました。いつ機銃で打たれるのか、そんな恐怖にさらされました。あたりを見ると逃げ惑う人たちであふれていました。おそらくその飛行機は、襲撃がうまくいったかの確認、偵察が目的だったのでしょう。

 戦時中はサツマイモがたくさんあって、なんとか食べられましたが、終戦後はとてもひもじい思いをしましたね。あと思い出すのが、あいさつを交わした米兵の顔です。チューインガムを落としてもらったりした友達もいましたね。後に姉が沖縄で米兵と結婚し、苦しい時にジュースを頂いたりした。悪い印象はないんです。

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 「おばさんは、アメリカは自国主義だから信用してはならない」と甥の恵省二郎さんにも忠告している。今のトランプ政権にも通じるようだ。
 
〈白い肌の米軍機操縦者から言い知れぬ恐怖感が伝わった〉

 坂木玄理さん(茨城・取手市在住=83歳)は昭和16年、徳之島亀津で生まれ、神戸で育った。

 一家は海の近くの集落にいたが襲撃の的にされやすく危ないので、野原にあった農家の倉庫みたいな建物に疎開しておりました。父は徳之島の飛行場に勤務、米軍に攻撃された飛行機や空港の修理をしていたようです。4歳の頃でした。米軍機が低空飛行でやって来たのです。1人で歩いていたら、白い肌の大きな人間が操縦していたのです。

 なんだか言い知れぬ恐怖感を抱いた記憶がありますね。防空壕は集落のはずれ、木が生い茂っていた山を利用したトンネル状のもの。母間の近くの山の中にあった。小さな子に心配かけないよう、大人が優しく語ってくれたように思います。母親(坂木(旧姓・西)テイさん)には「飛行機が来たら隠れるんだよ」と強く言われておりましたので、とにかく無我夢中で逃げましたね。徳之島からは、一旗揚げようと大阪とか神戸に一家で移った同級生がたくさんいた。ところが終戦後は父親が戦死したと、生活のために戻ってきた人がたくさんいた。「あ~日本は負けたんだな」とあらためて実感しました。戦争は絶対にしては駄目と、つくづく思います。

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 酒木裕次郎の名で詩人としても活動する「蘇鉄の実」の冒頭を紹介する。『紅く熟れた蘇鉄の実は食糧難だった戦争を連れてくる。平和をイメージする蘇鉄の実にいつかはなってほしい』