慰霊祭では、地元の子どもたちも犠牲者を悼み手を合わせた(6日、奄美市笠利町赤木名)
奄美市笠利町中金久の防空壕(ごう)跡地で6日、1945年8月6日に米軍機による空襲で亡くなった40人を弔う「慰霊祭」があった。和泊町(沖永良部)や喜界町、東京都などから遺族が駆けつけ、犠牲者を悼んだ。空爆があったこの日は、奇(く)しくも、広島に原子爆弾が投下された日。現地では大規模な慰霊祭が催されたが、赤木名空襲の遺族らは「地元の歴史に目を向け、笠利の悲劇を忘れないでほしい」と悲痛な思いを吐露した。
慰霊祭は、遺族らでつくる赤木名慰霊碑会(里斉亮会長)が主催し、毎年この日に行われている。慰霊碑は笠利公民館敷地内裏の山裾にあり、1975年に遺族らが寄付金を募って建立した。
同会によると米軍機は同日午後1時頃、防空壕を爆撃。避難していた地元住民や青年学校の生徒、教員など1歳から74歳までの男女40人全員の命を奪ったという。
高齢化などでこの日参列した遺族は9人。慰霊祭では、慰霊碑や納骨堂に向かって黙とう、線香を手向け、犠牲者の御霊(みたま)へ手を合わせた。慰霊塔の保全などで関係の深い、赤木名放課後児童クラブの小学生ら9人も焼香に訪れた。
赤木名小6年の原口さつきさん(11)は「児童クラブの先生が空襲の話をしてくれる。幼い子どもが戦争で死ぬことは想像できない。命がもったいないなと感じる」と話した。
19歳で青年学校に赴任した叔母を亡くしたという和泊町の伊集院周克(しゅうかつ)さん(78)は「父は毎年のように慰霊に訪れていた。今年は、叔母の写真や残された日記をコピーし持参した。地元の子どもたちと少しでも話がしたい。戦争の悲惨さを伝えたい」と話した。
別の男性は「慰霊祭を訪れる遺族も年々少なくなっている。このままでは、この空襲の歴史が風化してしまう。自治体も参加すべき」と焦燥感を口にした。
当時17歳で、遺体回収作業にあたったという登山昭和(あきかず)さん(96)の講話もあった。爆撃の音を聞き、その後目にした光景は悲惨だったと言い、必死になって掘り起こそうとする住民や、運良く難を逃れた人の話など赤裸々に語った。
「40人を掘り起こすのに4、5日かかった。異臭と、ばらばらになった遺体が地獄のようだった。日本がアジアに領土を求めた結果だ。二度とあってはならない」と何度も繰り返した。

