昭和25年頃の家族写真(右端が佐藤文子さん)
終戦から節目の80年を迎えた。平和に見える日本だが、いつ惨禍に巻き込まれるか分からない。未来に明るい光を呼び込むためにも、戦争の記憶を次の世代へ伝えていくことは大切だろう。奄美出身者に、戦争の体験を聞いた。(東京支局・高田賢一)
佐藤(旧姓・坂元)文子さん(龍郷町出身、昭和7年生まれ93歳=大田区在住)。
〈真珠湾攻撃を境に授業内容が激変。とどめを刺す竹やり訓練〉
それまで大勝尋常小学校2年まで普通の授業でしたが、1941(昭和16)年12月8日(真珠湾攻撃)を過ぎ国民学校に。「修身」の授業が教育勅語に代わりました。先生に続いて「朕思うにわれが…」と毎日繰り返し何度も言わされました。違和感はなかったですよ。サツマイモが主体の弁当を持って登校。教育勅語に続いては竹やり訓練。竹やりを持たされ「胸から上を刺しなさい」と指導されました。墜落した米兵にとどめを刺すためと説明されました。恐ろしいですよね。宇検村に飛行機が落ち、みんな勇んで駆け付けたが日本兵で安堵したと聞いたことがあります。先生からは「日本には神風が吹くから絶対に勝つ」と刷り込まれていました。だれかが戦死し村葬が行われるたび「お国のため名誉の死だ」と告げられる。ですから、いつ私の兄も戦地に行ってくれるのだろうか。そう期待していましたね。「肩を並べて 兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために 戦った 兵隊さんよ ありがとう」と毎日のようにうたわされた。やがて兄(坂元松夫さん=大正12年生まれ)はフィリピンに出征、終戦後は奄美の刑務所で副所長を務めました。みんなに親しまれたと聞いております。
〈両陛下の写真に直立不動。方言使用者には罰則〉
学校には奉安殿という建物がありました。そこに天皇皇后両陛下の写真が飾ってありましてね。行事や式典があると、村長や校長がその写真を参加者の前に持参。みな直立不動で出迎えたものです。防空壕は家族総出で大きな穴を掘ったもの。各家庭にあって5、6人は入れるような空間だったと記憶しています。空襲は、毎日のように。防空壕に入らないと危険なので、消防団員が見回りに来ていました。学校では「全国統一語」を使ってくれと言われ、方言が禁止に。間違って話すと「方言使用者」の張り紙を背中に張られ、廊下に立たされた。方言を使う者がいるか週番が見張っていたのも覚えています。とっても嫌な空気感が漂っていました。
〈ソテツが守ってくれた命。敗戦を予言していた父親〉
怖い思いをしたのは、小学4年の頃、節田(奄美市笠利町)で低空飛行してきた米軍機に遭遇。とっさの判断でソテツの陰に隠れました。機銃掃射がされて、通った後を見るとヤギとかウサギが殺されていた。ソテツが身代わりになってくれたのです。5年生の頃、赤尾木の軍事施設に向かって米軍機が3~5機の編成で低空飛行するのを目撃。周りは焼け野原状態でしたが、まだ殺すべき人がいないかと偵察しているようでした。恐ろしい風景です。山羊島(奄美市名瀬)に極洋丸が台風で座礁、そこにまだ人がいると思ってか何度も爆弾が落とされた。おかげで助かった命も多かったはずです。陛下のお言葉(玉音放送)の際は、ラジオの前に集まっていました。私は勝つと思い込んでいましたので、なんとなくワクワクしていました。意味は分かりませんでした。
昭和19年に家にある鍋や釜を戦争のため拠出したとき、馬の蹄まで出せと言われたのです。その際、父親(坂元五一さん)が「鍋釜まで出させるような日本は、もう終わりだ」と話していたことを覚えています。父親は十代の頃外国航路の船乗りでしたから、アメリカの事情をよく知っていたようです。母親(イノ千代さん)は「そんなこと言ったら(憲兵に)連れていかれちゃうわよ」と心配そうにしていましたよ。「台湾有事が大変気がかりです。また戦争が起きなければいいのですが…」と危惧する佐藤さん。次回は、その台湾(台北)で終戦を迎えた大江修造さんが登場する。

