~歌姫~城南海物語 02=ウタアシビ(前編)

キャンペーンでラジオの収録に臨む、デビューしたばかりの頃の城南海

証言者が紡ぐ奇跡の10年
音楽の父・シマ唄との必然の出会い唄のうまさに合わせて集った精鋭たち

 「ウタアシビ」。それは城南海ツアーのタイトルにも掲げられるテーマだ。奄美独特の音楽は、彼女の歌い手としての源泉となっている。ピアノの教師を目指し、音楽科のある高校へ進学するため鹿児島市内で四季を送ることになった南海は、やがて兄の影響で三味線を手にする。島を離れて、シマ唄に出会ったのである。

 島に住む者として、当たり前のようにシマ唄は何度も耳にしていた。ただ、「文化祭で唄者さんたちを目にしたり、瀬戸内ケーブルから流れるのを家で聞いて、これがシマ唄なんだ、と思ってはいました。ですが、友達にも唄う人もいなかったので、なんとなく遠い存在でしたね」。南海は、自身とシマ唄の関わりを振り返る。家庭の事情で、島の中を転々と住居を変えた。瀬戸内の古仁屋にいたときも、名瀬小宿の福崎郁代の音楽教室へ「片道2時間もかけて父や兄がピアノ教室へ送迎をしてくれた」。車窓から流れる風景や、何気ない会話は、きっとのちの作詞作曲の基になったことだろう。福崎を「音楽の母」とたとえるそんな彼女が、「音楽の父」ともいえるシマ唄と出会うのは、自然の流れだったかもしれない。

 その後、兄のいる鹿児島市内の奄美料理店を舞台に、ウタアシビに参加するようになった。「高校1年の終わり頃からです。2年には三味線も始めました。歳も一番下だったから、かわいがられながら教えてもらった」と記憶している。平成17年4月から名瀬金久町で「居酒屋ならびや」を営む一方、しま唄グループ代表、エフエムたつごうでパーソナリティーを務める和田孝之。店では数え切れない唄者らが「ウタアシビ」を展開し、自らも三味線を手にシマ唄を歌い上げる。そんな和田が、南海がプロデビューする際に所属事務所からのオファーで、テレビ番組を制作するに当たって協力を要請された。「シマ唄が歌えるとのことでしたが、レベルが分からず一度聞かせていただいたところ、非常に上手でしたので驚きました」。南海の唄を耳にした和田は、若手の唄者に声を掛けて、ウタアシビに発展していったのである。集まったのは、山元俊治、中村瑞希、前山真吾ら当時の奄美民謡界を先導するそうそうたる若者たち。奥の座敷に集う先輩たちを前に、南海は全く臆することもなく登場。「笑顔を絶やさず、誰とでも気安く話せる社交性を備えており、若手唄者に、兄ちゃん、姉ちゃんと気さくな一面を見せていた」(和田)。こうして和やかな雰囲気の中、ウタアシビが始まった。

 (高田賢一)=敬称略・毎週末掲載