シマ唄に秘められた島の歴史文化を広く伝えるために②

本番に向けて朝崎さんの熱心な指導が入る

「いろんな教えを学ぶ」「いろんなものが秘められる」
朝崎さんにとってシマ唄とは

 「シマ唄は命、そうでなければ人生80年も続けてはいかれない。1人でも多くの人たちに伝えたい。こんな時代だからこそ島の香りに触れることで人生は変わっていくのではないかしら」

 「先祖が生きてきた生活してきた歌だから、愛情があり、深さがある。先人たちの魂が残っている。あと10年若ければ、今歌っている子どもたちをみんな集めて、奄美の歴史を伝えてあげたい。奄美の歴史を知ったら、もっと好きになると思う」

 「いい歌がたくさんあるんですよ」

 ―子が親を思う、親が子を思う歌―

 ―玉黄金親や産しど産されりゅる きも魂入れて産しぬなりゅめ― 

 (あなたに賢い魂を入れて産んだのではない。あなた自身でいろんな経験をして魂を持つようになるのよ)

 「直接言うのでなく、遠回しに歌で伝えているのね」

 ―2人親がなし 年やとてぃいきゅり 黄金橋掛けて引きむどぅち拝もう―

 (親はどんどん年を取っていく 願いがかなうなら黄金の橋(最高の敬意)を架けて親を若返らせてあげたい)

 「よく歌う歌で、方言サミットでも歌いました」

 ロックをやっている若者に、「シマ唄歌ってる?」と聞いたことがあるという。「シマ唄は難しい」という返事が返ってきた。「あなたたちのロックに合わせてシマ唄を歌うからと言うと、『それならできるかも』と言ってくれた」若者たちと一緒にステージに立ち、若い人たちがシマ唄を身近に感じるような活動をしたいと目を輝かせる。「シマ唄は奄美の歴史と文化が詰まっている。それを後世に伝えてきたい」と願う。

 祖母が喜界島の人ということもあり、朝崎さんは喜界の歌にも明るい。「いきゃびきという唄があってね、南の風のときはイカが釣れるという歌詞なのよ」と話してくれた。父親の辰怨さんと母親のウサダさんはいとこ同士で、両親ともに歌をよく歌い、シマ唄の中で育った。「母は踊りも上手で押角で開かれる演芸大会にはよく呼ばれていました。母が出ると、花富集落が優勝するのでね」とうれしそうに話される朝崎さん。「母は父を大事にしていました。当時は大変な時代で、食べ物がないんですよ。よく育ててくれたと思います。山でイモを作って、成長する前の小さいうちにとって、食べていましたね。主食はソテツの芯がゆです」。シマ唄の話と、歴史の話はつながって出てくる。

 「歌も、経験した人でないと難しい。だから知ることが大事なんです」

 結婚で島を離れるまでは師匠の福島幸義さんと兄弟子の武下和平さん、3人で島々を回り結婚式など祝いの席に呼ばれ歌を歌っていた。「歌は習うと言うより、本番でお囃子をしながら覚えていきました。耳学です。舞台が稽古場でした。だから忘れないんですよ」

 「シマ唄は、昔は生活と密着していた。教訓歌詞が子どもたちの教育の一端を担っていたから、歌からいろんな教えを学んでいた。文字の代わりに、歌で残していたのだと思う」

気付き

 「60代の中頃に歌の本当の意味に気が付いた気がします。ある日バスを待っていると、ふと浮かんできた歌詞が、母親が何げなく言っていた言葉だったんです。『今年はカイコが繭を巻いている』明治生まれの母親は、機織りをしていた横でカイコを育てていました。歌にはいろいろなものが秘められている、これを説いていくとすごいことになるなあ、と新たな興味が沸いてきました。こんなすごい歌詞を誰が作ったのだろうと思っていましたが、生活の中から生まれていることに気が付き、おろそかにしてはいけない、残していかなければと」

若い人たちに伝えたい

 「共通歌詞を覚えると、レパートリーが広がります。覚え始めたら次々と覚えられて面白いんです。それまで我慢してたくさん弾いたり歌ったりして乗り越える。そこを越えたら、理屈が分かるんですよ」

 自然を神とたたえていた奄美。もともと楽器なんて付いていなかった。たくさんの人に聴いてもらいたい思いで、洋楽器でやるようにした。「どういう楽器でも合うだろう。いろんな楽器に合わせてやってみたかった。『いろんなことをやってみるのよ』若者に興味を持たせたい。文字のない時代、 書くことを禁じられていた時代に、歌で残して来たものがある、それが消えてしまったら島の歴史をなくしてしまう」