参列者たちは森田氏の最後にシマ唄で花を添えた
可愛がってもらったという中孝介さんも駆けつけ、遺影の前で参列者と「ヨイスラ節」を唄った
【東京】シマ唄の唄者森田照史(本名・照文)氏をしのぶ「お別れの会」が23日、東京の江古田斎場で行われ、大勢の弔問客が訪れ、最後の別れを惜しんだ。
森田氏の東京での三味線教室「花ぞめ会」の生徒ら関係者によって執り行われた会には、友好のあった沖縄民謡の仲間や大島高校の同窓生、また中孝介さんらシマ唄界の後輩らも詰めかけた。森田氏が新宿で開いていたお店「朝花」で働いていた松元良作さんも奄美から上京した。生前、森田氏が言っていた「自分の別れの日は楽しくしたい」という言葉通り、唄ありの楽しい会で森田氏を見送った。
1945年、奄美市名瀬生まれ。シマ唄の唄者山田フデを祖母に持ち、幼いころから、南政五郎、上村藤枝、などの歌うシマ唄に囲まれて育った森田氏。唄は結婚式や新築祝いなどで歌う、祖母の傍らで聞き覚え、三味線の技は南政五郎氏にウタアシビの中で教わった。
72年に「中堅唄者実況録音」(セントラル楽器)に最年少の26歳で参加した後、鹿児島に「白い扉」という三味線とエレクトーンとギターで演奏して楽しませる店をオープン、名だたる音楽家が来店していた。
そのあとも、奄美、鹿児島、関西、東京などで島料理の店を開き、シマ唄、島料理をふるまい、来店者たちを楽しませていた。最後の店になった「朝花」では、月一回のウタアシビを開き、身近で楽しめる奄美のシマ唄を広めた。「一度はその三味の音色を聴いてみたい」と、訪れる人は少なくなかった。
弔問に駆けつけた小勝竹雄さんは、森田さんと平田輝さんを一緒に奄美観光大使に推薦したのは自分だと話し「本当にいい人だった。残念だ」と悔しさをにじませていた。
「照史おじ、ありがっさまりょうた」
素晴らしい奄美シマ唄者の先輩が、また一人シマから居なくなってしまいました。
シマ唄はもちろんのこと、三味線弾きとしても照史おじの右に出る人は少ないと思います。
シマ唄に限らず、とにかく芸事が好きで、人をもてなし喜ばせるという事が好きな唄者でした。
その姿勢から、人生を唄に乗せるという事をたくさん学ばせてもらいました。
その唄声、三味線の音色をもう側で聴くことが出来なくなったのかと思うと、本当に寂しいですが、あの土臭く、情けやなつかしゃを感じる森田照史の響きは、確かに僕の中に残っています。
照史おじ、本当にありがっさまりょうた。
どうか安らかに眠りんしょうれ。
中 孝介