武蔵野奄美フォーラム

自らの半生を語った龍さん

龍一文さん半生を語る
「できることからやることが大事」

 【東京】今年で30回を迎えた「武蔵野奄美フォーラム」(大江修造会長)はこのほど、小金井市商工会館前原集会所で開かれた。今回は最近まで「警視庁警察学校」の校長を務めていた奄美市出身の龍一文さん(60)が「私の半生を語る」と題して講演を行い、会場に訪れた42人の参加者が耳を傾けた。同講演の内容を紹介する。

勉強より柔道の日々

 龍さんは、名瀬中時代から柔道クラブに入ったが、当時は「殴られたり、パワハラは当たり前で、殴られないように強くならんといかん」と、勉強そっちのけで柔道の稽古に励んだという。県大会で3位入賞。レギュラーの4人が大島高校に進み、同校では殴られることもなく、「離島初のインターハイを目指そう」と、こちらでも勉強より柔道に励んだという。

 顧問の教師は柔道はできないものの熱血漢で、朝戸トンネルまでのランニングを日課と課し、それが功を奏したようだ。入学後の県大会では、団体戦先鋒を任されたが敗退。一方で、軽量個人戦は優勝。チームメイトには「団体戦で手を抜いただろう」とこづかれた経験も語った。

 1976年のインターハイは長野の善光寺で行われ、前日の長野入り前に宿舎となった東京・原宿を歩き「大都会。華やかで活発な街。こういうところで仕事したい」と夢が膨らみ、第一希望に東京の警視庁を選び、採用試験を受け合格した。
 77年から当時は中野にあった警察学校で教練に励み「電車の音を聞くだけで、都会にきたなあ」と全寮制の部屋で一人ごちたとのこと。
 
 警官から刑事に
 
 杉並交番勤務を皮切りに、第一機動隊時代は、当時の成田空港闘争が激しいころで、投石、火炎瓶の中に入ることも。
 その後、警視総監の秘書役をつとめていたが、杉並交番勤務時代の先輩が殉職する事案が起こり、事件を解決する刑事を目指すことに。講習を受けて刑事になり、上野警察署刑事課長時には、グリコ森永事件や朝日新聞襲撃事件などの張り込みにいそしんだ。

 捜査一課長時代の2012年には、関東安陵会時に「ガセネタだろう」と思っていたら、オウム真理教の関係者を逮捕でき、龍郷会の時には、暴力団を検挙できたりと「奄美関係のつながりのときに力を得られた」と語った。

 また、最近の窃盗などの犯罪は半減しており、町の人たちの自主パトロールによるもので、「警察署や交番は、住民とのコミュニケーションがとても大事」と話し、自らも地域連携を図ったという。
 
 「できること、行動すること」
 
 先日まで勤務していた警察学校では「匠になりなさい。三つの念、執念、丹念、情念を持ってと話したが、学生たちに通じたかは分からない」と話し、現在の旨としている彫刻家・平櫛田中=ひらぐしでんちゅう=の言葉を披露した。「実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。やってやってやり通せ。60、70、洟垂=はなた=れ小僧 男盛りは100から」と力強く紹介、「とにかく行動すること、できることからやることが大事」とも。

 講演後には質疑応答が行われ、奄美が大好きな島外者から「島では多くの講演会が行われ、島は宝で生かせという話の後は、飲み会になり、行動につながっていない。龍さんにぜひ、行動のことを伝えて欲しい」との苦言と願いも聞かれた。