天城町「戸森の線刻画」シンポ

天城町であった初の「戸森の線刻画シンポジウム」=13日、天城小体育館

戸森の線刻画(一部分の資料写真、天城町)

世界のペトログリフの一つ
専門家ら仮説錯そう 講演会交え考察「謎は謎で魅力的」

 
【徳之島】天城町の「戸森の線刻画シンポジウム―線刻画の謎に迫る」(町、町教育委員会主催)が13日、天城小体育館であった。同町教委の発掘調査成果など2氏の報告と、各地の装飾古墳との比較・船形刻画や弓矢の検討・歴史資料から見る解釈など専門家4氏の講演会を交え謎の〝歴史メッセージ〟を考察。「島民が描いた」の共通見解のなかに、時代背景や目的説は錯そう。世界的ペトログリフ(線刻画)の一つで「島の人の心が表れている」との評価も示された。

同町教委は、謎の同線刻画遺跡を「徳之島の特徴的な文化財」と位置づけ2012年度~15年度に初の本格的調査を実施。シンポジウムは同調査成果報告と併せ、各分野の専門家を交え歴史的位置づけを―初計画。島内外の研究者や考古学ファンなど約250人が来場。大久幸助町長は「町内には多くの遺跡が。戸森の線刻画はいつ・誰が・何のために描いたのかは謎。文化遺跡の一つ一つを明らかにすることは本町発展の礎になる」と呼びかけた。

報告には▽同町教委の具志堅学芸員が「戸森の線刻画の発掘調査の成果」▽基昭夫・日本工業大特別研究員が「同線刻画を描いた工具の検討」で登壇。

講演会では、▽赤司善彦・福岡県教育庁総務部副理事兼文化財保護課長が「装飾古墳に見られる線刻画について(戸森の線刻画との比較)」▽松木哲・日本海事史学会副会長が「船形刻画についての検討」▽木下尚子・熊本大文学部教授が「戸森の線刻画に描かれた弓矢について」▽永山修一・ラ・サール学園教諭「歴史資料から見る戸森の線刻画の解釈」を演題に持論を展開した。

具志堅学芸員は新たな「第3線刻画」発見の成果や17世紀後半ごろの陶磁器出土(時代推定手掛かり)、第1~第3線刻画は「単一時期に描かれてない」とし、「17世紀に徳之島で起きた歴史的出来事の薩摩侵攻との関連」を仮説。基氏は、戸森をはじめ犬田布岳・馬根・母間・三京などの線刻画は「同一年代に描かれた」。線刻実証実験から「戸森は軟鋼工具(和釘)で風化層に何度も引っかき加工で線刻したと考えられる」と推測する。

講演で、赤司氏は全国の装飾古墳約700基の地域特徴などを解説しその半数以上は九州に分布。船の線刻は25例で「線刻画は時代の位置づけが難しい」。松木氏は、信仰目的の奉納絵馬などの船絵は非常に正確に描くが、戸森の線刻画は「イメージで描き実物を再現していない」とも強調。

木下氏は、弓矢の比較検証から「鉄鏃=ぞく=を主体的に使う集団戦は中世に特徴的。描かれた矢に雁又=かりまた=矢が多いことから、その持ち主は南九州人」。14~15世紀と推測し、鹿児島川辺郡に関わる1306(嘉元4)年の文献「千竃=ちかま=時家処分状」(女子姫熊に「とくのしま」を与える記述)との関連性も示唆する。

永山氏は、史料に見る平安中期の南蛮襲来事件「奄美島人の大宰府管内襲撃」(997年)に対する追討から、琉球勢力、九州と琉球勢力の交戦、薩摩藩の琉球侵攻(1609年)―と10世紀~17世紀初頭の幅広い「戦い」との関連性を示唆。課題に「カムィヤキ古窯跡群の位置づけ。倭寇の活動の位置づけ」を挙げた。

討論会は、新里亮人伊仙町学芸員の海底遺物調査報告も交え、会場の質問に答える形であった。誰が描いたかの点で、シンポジストらは「島民」で一致したが、歴史ロマンの解明は今後にゆだねられた。

コーディネーターを務めた赤司氏は「ペトログリフは世界にたくさんあって古いものは2万年前。(戸森は)その中に入り、島の人の心が表れている。謎は謎でまた魅力的。線刻画の保存活用に期待したい」と絞めくくった。