瀬戸内町教委 久慈水溜跡現場公開

瀬戸内町教委 久慈水溜跡現場公開

1895年に建造された久慈水溜跡

ろ水池跡を見学する参加者

レンガの積み方「オランダ積み」
内部やろ水池跡など見学、出土遺物説明

 瀬戸内町教育委員会は24日、同町久慈の佐世保海軍軍需部大島支庫(久慈水溜)跡で発掘調査現場公開を行った。町内外から見学者が訪れ、水溜=みずため=跡内部の観察や、出土した遺物の説明などが行われた。

 同町は国庫補助で、「瀬戸内町内の近代遺跡内容確認調査」を実施。町教委の埋蔵文化財担当の鼎=かなえ=丈太郎さんが、現場公開で発掘調査の成果などを説明した。

 鼎さんによると、久慈水溜跡は日清戦争終了後の1895年(明治28年)に建造された赤レンガ構造物。久慈湾が軍事上の「要港」とされ、日本領となった台湾への航路を維持するため、久慈には石炭庫と番舎、水溜が建設されたという。

 こうした奄美で古い時期の赤レンガ建設物は、幕末に薩摩藩が奄美大島の4カ所(久慈・宇検村須古・奄美市名瀬金久・龍郷町瀬留)に作った白糖工場が該当。久慈の白糖工場跡は県立埋蔵文化財センターなどが発掘調査し、赤レンガの遺構や煙突跡とみられる遺構などが発見されていた。

 鼎さんは、「水溜跡の高さは約4・5㍍。レンガの積み方はオランダ積みで、長崎のグラバーが連れてきたウォートルス技師の技術に似ている。貯水量は約300~350㌧」と水溜の前で解説。調査で見つかった赤レンガなどの遺物を見学し、参加者は二班に分かれて「水溜跡内部」と「ろ水池跡」を観察した。

 水溜跡内部はレンガ積みセメント張りで6区画に区分。各区画には人が通れる大きさの穴が空けられ、レンガ積みの最上部にはオーバーフローのためとみられる凹部が形成されていた。

 ろ水池跡は、山から引いた水を不純物など濾=こ=して、水溜跡に送る目的で設置。約1・8㍍四方の赤レンガ積みで内面はセメント張りされていて、導入口や水をろ過するための岩石も発掘調査で発見された。

 現場公開の午前の部に参加した古仁屋高校3年の亀澤光さん(18)は、昨年の夏に同級生たちと町内の高齢者から戦争体験の聞き取り調査を行ったという。亀澤さんは長崎に住んでいたことから、「水溜跡にグラバーが関わっていたと知り、大変驚いた。近代遺跡を知れたり聞き取り調査などで、充実した1年間だった」と話した。