奄美や沖縄の先史時代遺跡を通し、当時の人々の「環境文化型」を示す暮らしに触れることができる(面縄貝塚発掘調査・伊仙町教委提供)
奄美群島国立公園が誕生して一年。環境省によると、これまでの国立公園にはない「生態系管理型と環境文化型の二つの新しい考え方に基づいて保護管理されている」。固有で希少な動植物など生態系全体を保全していくのが生態系管理型だが、環境文化型とは何だろう。その原点とも言える人と自然の関わりを私たちの祖先の暮らしに見ることができる。歴史から学ぶことが環境文化型を理解する一歩のような気がしてならない。
奄美・沖縄の先史時代遺跡から出土する脊椎動物遺体の研究者として知られる樋泉岳二=といずみたけじ=さん(早稲田大学)。樋泉さんが分析した面縄第2貝塚(伊仙町)では、アマミノクロウサギの出土数がとくに多く、鳥獣類中での個体数ではイノシシに次ぐという。
「このことから、当時の徳之島ではアマミノクロウサギがイノシシとともに身近な哺乳類であり、また大切な食料となっていたことがわかる」。リュウキュウイノシシやアマミノクロウサギといった森林性の強い動物群の普遍的な存在。「この時代の奄美群島・沖縄諸島が自然度の高い森林に広く覆われていたことを明確に示している。このように、島という限られた環境の中でも自然を悪化させず、人と自然とのバランスのとれた関係が非常に長期間にわたって続いたこと、この驚くべき安定性・持続性は世界的にみても特筆すべきものである」。
樋泉さんが主張する人と自然のバランスのとれた関係。それは人が生活し暮らしを築いていくための生業によって浮かび上がる。鹿児島大学国際島嶼教育研究センター教授で奄美分室にも所属している高宮広土さんが研究する「狩猟採集」という生業によって。
高宮さんによると、奄美・沖縄の貝塚時代(旧石器時代以降、グスク時代の前)の遺跡からはコメやムギなどの栽培植物は発見されておらず、この時代の遺跡から出土する動物は主にサンゴ礁域に生息する魚類や貝類、陸上ではイノシシなどで、植物の方は堅果類のシイノミやシマサルナシなど。私たちの祖先は、野生の動物と植物を食料源とした狩猟採集民だったのだ。
奄美における狩猟採集は、6500年前から1千年前と約5千年間もの長期にわたって続いたとされている。稲作などの農耕は、限られた面積でも多くの食料を供給することが可能だ。これに対し、海や陸上の自然資源に依存する狩猟採集の場合、採集できる場所や時期の問題などから、移動生活が当時の人々の核となっている。現在の社会にも通じる効率性や安定性から見れば農耕の方が理想的のように映る。九州本土などとの交易によって、おそらく稲作の存在を知っていたと推測されるのに私たちの祖先は飛びついていない。
「農耕よりも狩猟採集の方が楽だったからではないか。ある狩猟採集の研究によると、彼らは一日2~3時間、週に3~4日程度での労働で生活に必要な食料を得られた。労働時間が短ければ危険なことに遭遇する確率も低く、労働以外の時間が十分に保て、道具のメンテナンスや教育などに充てていたことが明らかになっている」と高宮さんは説明する。
狩猟採集で営まれた暮らしは、分配・平等社会でもあった。自然の恵みである資源が対象だけに、農耕を営む上で欠かせない水田や畑といった「誰かのもの」という所有物の概念が狩猟採集には存在しない。資源は「みんなのもの」であり、みんなの存在を意識するから枯渇を招くような一方的な取り過ぎをせず、みんなで分け合って生活してきた。
「誰かのもの」ではなく「みんなのもの」。そして採集物をみんなで分け合う生活を長く維持していくためにも自然と共に、自然と調和して生きてきたのだろう。これが生きる術だったのだ。
「分配によりみんなで助け合っていく暮らしは、まさに平等社会。農耕によって形成された階級社会とは対照的な暮らしであり、大きな組織で感じられるストレスもなかったのではないか。家族や親族単位などの離合集散しやすい小さな集団であり、とても楽で人にあった生き方が狩猟採集。だから5千年以上も続いたのだろう」(高宮さん)。
人々の暮らしや営みなどに深く関わってきた自然環境。それと共に生き、みんなで助け合うという分配と平等の文化を守り継いできた歴史。環境文化型は、将来にわたり島嶼地域で生活するための知恵ではないだろうか。
(徳島一蔵)