平成最後の夏 記憶の継承 それぞれの活動=4=

インターンシップで町内の戦跡を巡り見学する生徒たち(7月26日、瀬戸内町久慈の水溜跡)

戦時中軍事利用された大島海峡と、陸軍が奄美大島要塞司令部を置いた古仁屋(右)(資料写真、魚眼レンズ使用)

古仁屋高校 身近に残る戦跡から学ぶ
「頭に浮かぶ当時の光景」

 大島海峡が見渡せる奄美大島南部の玄関口・瀬戸内町古仁屋。雄大な海峡も戦前には軍事利用され、軍港や要塞が置かれた。終戦前の1944年(昭和19年)6月29日、同町古仁屋を出発し、那覇に向かった「富山丸」が徳之島沖で米軍潜水艦により沈められた際には同町の住民らが救助活動に携わったなどの象徴的な逸話も残る。

 同町教育委員会の調べでは2016年度現在でも、町内に206カ所もの戦跡が残る。加計呂麻島の安脚場戦跡公園(現在は通行止めにより立ち入り不可)、久慈の水溜跡(佐世保海軍軍需部大島支庫)、西古見の陸軍観測所跡―など、枚挙にいとまがないほどの施設が観光地としても利用される。

 同町の県立古仁屋高校(大山良一校長、全校生徒107人)は奄美大島の陸軍部隊の中心施設だった「奄美大島要塞司令部」の跡地に建つ。同校周辺では弾痕跡など戦争の悲惨さを伝える生々しい記録が発見されている。

 戦跡が身近に残る環境を生かし、同校では2016年度に赴任した米倉秀和教諭を中心に、有志の生徒による近代遺跡や戦争を学ぶ自主的な学習が進められる。進路指導主任でもある米倉教諭は「小中高と大学を接続するキャリア形成のモデルケースにしていきたい」と町教委と連携してきた事業の趣旨を語る。

 17年度は当時3年生だった生徒3人と米倉教諭が町内の福祉施設(寿老園、奄美の園)で約20人の戦争体験者からの聞き取り調査を実施。戦時中の古仁屋の様子、終戦後の食料難などの実情を聞き取った様子をビデオカメラで記録し、同校の文化祭で発表した。

 今年度は2年生の生徒4人がインターンシップ期間に同町教委社会教育課で職場体験。町内の戦跡を含む近代遺跡を見学した。また今月5日には同校グラウンドで奄美大島要塞司令部跡の発掘調査を実施。見学だけでなく遺跡を発掘することで、どのように戦跡が発見、保存されているのかを学んだ。

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 奄美新聞社は6日、米倉教諭と同インターンシップで戦争への関心を高めた4人(濱田怜弥さん、岩木乙香さん、福沢あさひさん、奥村芽生さん)に集まってもらい、座談会を開催した。 〝つなぐ世代〟の高校生たちは戦争について何を考えるのか、何ができるのかを話し合ってもらった。

 インターンシップで学んだことについてはそれぞれ「普通見ることができない戦跡が瀬戸内町にも多くあり、知らないところばかりだった」、「戦跡を見て、実際に触ることで、当時の光景が頭に浮かぶ」―など町内に住んでいても戦跡に触れる機会は少なく、新鮮さを感じたようだ。

 濱田さんは「実際に行くまでは教科書の中の話。行ってもまだ遺跡があるということしかわからない。ガイドしてもらうことで初めて知識を深め、より具体的な想像がふくらむ」と語る。そして、「一見戦跡とはわからず、ガイドがないと詳細がわからないのが問題点。看板を設置し、周知する必要がある」など、今回の経験を生かし戦跡を残すための手立てを考えた。

 しかし、4人ともインターンシップに参加するまでは戦争に関する知識を得る機会は少なかった。岩木さんは「祖母の兄弟が戦死した話や、小さな弟を背負いながら走った話などを聞いた」と話すが、家族や親族から伝え聞いた体験談までにとどまり、兵庫県出身の濱田さんは家族から聞く機会もなかったという。

 こういった現状について4人は「学習発表会で戦争のことを劇として演じたが、学校行事や授業でしか学ぶ機会がない」などと話す。家族以外の戦争体験を聞かなかった生徒たちからすれば、学校での平和教育が戦争を知る貴重な機会だ。

 米倉教諭は「今の平和教育は、『悲惨な時代だった』『今の時代に生まれてよかった』と思わせるような教育」と指摘。「もっと当時の生活にスポットを当てるべき」という米倉教諭の思いは、体験者への聞き取り、戦跡の見学・調査などの手法が物語っている。(西田元気)