新時代の兆し

県立埋蔵文化財センターが実施した久慈の白糖工場跡の現地公開

瀬戸内町社会科部会の研修で白糖工場跡の意義や価値などを説明

奄美にある集成館プロジェクト

 「明治日本の産業革命遺産」が2015年7月、世界文化遺産に登録決定した。西洋以外の国としては初となる産業化を、50年余りで成し遂げたとする同遺産の構成資産は全国の8県11市に分布している。鹿児島県には幕末薩摩藩の集成館事業に関する産業遺産として鹿児島市にある旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝の三つが「明治日本の産業革命遺産」の構成資産に含まれている。
 藩主島津斉彬が富国強兵・殖産興業を目指して始めた集成館事業に関連する遺産は、県内各地にも見られ、奄美大島にも存在する。
 県ではこうした関連遺産と連携した「かごしま産業遺産の道」事業を実施。95カ所の関連遺産の概要やストーリーでつないだ周遊ルートを作成し、県観光連盟サイトの「かごしま産業遺産の道」のページで産業遺産を彩る19のストーリーとして紹介。旧集成館などに来た人々が周遊ルートを参考に各地の遺産を巡ることで、世界文化遺産登録の効果を県下全域に波及させることが期待されている。
  ◇   ◇  
 奄美の近代化遺産は、幕末に薩摩藩が奄美大島の4カ所に建設した白糖工場跡などが該当する。当時サトウキビが年貢とされていて、奄美の黒糖が薩摩藩の財政再建に大きな貢献をしたことは、志學館大学の原口泉教授や龍郷町出身で東京理科大学の大江修造元教授の研究などで明らかにされている。
 薩摩藩の重要な財源であった黒糖だが、四国の讃岐産白糖など他藩の上質な砂糖が台頭してきて幕末期に次第に価格が下落。薩摩藩は大きな打撃を受け、1851年に11代藩主に就任した島津斉彬は鹿児島城内で白糖製造の実験を行い成功。だが斉彬が急逝したことなどで、白糖の本格生産は実現せず中断された。
 白糖製造が再開されるのは、63年になって長崎の貿易商グラバーと薩摩藩士の五代才助(後の友厚)が幕府には秘密裏に、奄美大島で白糖工場の建造を計画し4カ所の建設地を選定してからとなる。
 65年に鹿児島本土から100人以上の大工や石工が動員され、金久(奄美市名瀬)と須古(宇検村)で資材に輸入レンガや凝灰岩切石を用いて、洋式機械(蒸気機関)を導入した当時としては最先端の工場を建設。66年には金久と須古の工場が完成し、久慈(瀬戸内町)と瀬留(龍郷町)で工場建設が始められた。
 翌年に久慈と瀬留の白糖工場も完成して、4カ所で白糖製造が開始されるが、薪の不足や台風による被害などで工場の稼働年数は1~3年程度で廃止。最も長く操業した久慈でも、5年で白糖製造が打ち切られている。
  ◇   ◇  
 工場建設には後に銀座のレンガ街などの建設に関わるアイルランド人の建築・機械技師ウォートルスや、白糖製造技師のマッキンタイラーを招いて技術指導に当たらせた。2人の技師は秋葉山(金久)の頂上に建てられた洋館に住んでいたことから、この地は「蘭館山」と島民に呼ばれるようになったと伝わる。
 短命に終わった白糖工場だが、高品質の白砂糖は国内だけでなくグラバーにより海外にも輸出。久慈の白糖工場跡を発掘した県立埋蔵文化財センターは、「白糖工場建設は多くの財源を得たい薩摩藩と、東アジア市場へ砂糖を輸出し利益を求めるグラバーとの南海の集成館プロジェクト」と評価している。
 同センター職員が今年7月、瀬戸内町の社会科部会の教職員を対象に、発掘調査の成果をもとにフィールドワークを展開。センター職員が出土した耐火レンガやパネルで説明し、参加した教職員からは「白糖工場跡の価値などがよく分かった。成果を授業に還元して、生徒たちに伝えていきたい」との感想も聞かれた。

レンガ導入期示す重要な発見

発掘調査で発見されたレンガ敷遺構

久慈白糖工場跡のレンガ造り遺構は現存する最古のレンガ造り建築として貴重な発見と評価されている

 薩摩藩が藩の収入増を期待して、幕府の目を逃れて奄美大島の4カ所に白糖工場を建設。その中でも久慈(瀬戸内町)の白糖工場は最大規模を誇り、稼働期間も他の3カ所より長く約5年間だった。
 県立埋蔵文化財センターが2016~17年にかけて、「かごしま近代化遺産調査事業」で発掘調査を実施。16年の調査では、方形と円形のレンガ造り遺構が各1基ずつ発見されている。
 17年度調査は、前回の調査で発見されたレンガ造り遺構の広がりの把握と、白糖工場跡建物の正確な位置と規模を明らかにする目的で行われた。
 調査により新たにレンガ敷遺構1基を検出。またこの遺構の近くには、焼土と大量の廃棄レンガが見つかっていることから、同センターは煙突に近接するボイラーに関連した遺構と推察している。
  ◇   ◇  
 県立糖業講習所が古老たちの聞き取りをまとめた『慶応年間 大島郡に於ける白糖の製造』(1935)によると、久慈の白糖工場跡は建物が約90㍍×約27㍍規模で煙突7本を備えた奄美大島4カ所の中で最大規模の工場だったと伝わっている。
 工場建設は長崎の貿易商グラバーが関与し、アイルランド人の建築・機械技師ウォートルスが総監督となり、藩士7人、通訳1人、医師1人、作業員120人以上が来島して行われたという。
 久慈の白糖工場では、オランダ製の機械を導入。工場の建材に輸入耐火レンガや凝灰岩切石などが用いられ、屋根がトタンぶきで当時の先端技術が結集された工場とも。
  ◇   ◇  
 同センターは今年3月、調査の成果を報告書にまとめた。報告書では「1865~67年(慶応年間)に奄美大島に建設された4カ所の工場の一つで、3基のレンガ造り遺構など工場の痕跡が確認され、日本のレンガ導入期の様相を把握するうえで重要な発見」と位置付けている。
 同報告書でレンガ造り建築史の観点から論考を寄せた広島大学大学院工学研究科の水田丞助教は、「奄美大島の白糖工場はウォートルスの日本国内での初めての仕事」と評価する。
 レンガ造りの洋風の工場建築としては、幕末に建造された反射炉や長崎製鉄所に続く施設で、「日本人が工夫をして産業構造物を建設していた時代から、外国人建築家が直接工場を設計するようになった時代への移行期に位置する」と考察している。
 同センターの調査担当者は、発見されたレンガ造り遺構3基を白糖工場内に設置されていた施設に関連する遺構と推察。「限られた部分しか残っていないという条件が付くが、現存する最古のレンガ造り建築として貴重な発見」と評価している。
  ◇   ◇  
 白糖工場跡から出土した耐火レンガや赤レンガなどの遺物は、文化庁などの主催する「発掘された日本列島2018新発見考古速報」展に出展。全国の選りすぐりの16遺跡の展示品と一緒に全国5カ所(東京都、神奈川県、石川県、岐阜県、広島県)を巡回中。
 同センターは県内の遺跡の発掘調査や、出土した資料の整理などの業務を担う。普及啓発にも力を入れており、センター職員が遺跡の近くの小中高校などに出向いて出土品を活用した授業支援を実施。久慈の白糖工場跡の資料も、奄美大島の学校での授業支援が予定されている。

国際的視野もった政治家

りゅうがく館で開催されている特別企画展「西郷隆盛と菊次郎展」
西郷菊次郎が誕生した龍家本家跡(3月4日の上陸記念祭)

 薩摩藩がウォートルスなどを遣わして、龍郷の瀬花留部(現・瀬留)に白糖工場を建設して稼働させていた時期に前後して、後に京都市長などになる人物が誕生していた。西郷隆盛(菊池源吾)の長子・菊次郎だ。
 龍郷町の名誉町民でもある菊次郎は1861年(文久元年)、西郷隆盛が安政の大獄を逃れ奄美大島に潜居している時に地元の龍家出身の愛加那との間に生まれた。69年(明治2年)菊次郎が9歳の時に鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳で米国留学し英語を習得する。
 74年に帰国した菊次郎は下野していた父・隆盛が興した吉野開墾社に参加して、農業しながら勉学に励んだ。西南戦争では父と一緒に薩摩側で参加し右脚を負傷後に官軍に投降。菊次郎はこのけがで右脚膝下を切断し、義足を着けるようになる。
 妹の菊草の婚礼が済むと、鹿児島から龍郷に帰郷して愛加那と再会。鹿児島から手紙が届き戻った菊次郎は義足や士官の相談で上京して、父と親交があり奄美でも交流のあった重野安繹に師事して漢学を学ぶことになる。
 2度の米国留学の経験から外務省や台湾などで勤務し、1904年(明治37年)2代目の京都市長に就任。療養のため市長を辞任した後、鹿児島の永野金山の島津鉱業館長を務めて武道館や夜学校を開設し青少年の育成などに貢献した。
◇   ◇
 明治維新150年の節目の年に、同町は西郷隆盛と菊次郎にゆかりの深い京都市、熊本県菊池市、鹿児島県さつま町、台湾宜蘭市との交流に乗り出した。竹田泰典町長などが京都市や台湾宜蘭市などを訪問し、8月のシンポジウム「西郷隆盛と菊次郎~敬天愛人に繋がる親子の絆~」で西郷父子に関係する自治体相互の交流を促進する宣言が行われた。
 大河ドラマ「西郷どん」の放送で、今年は奄美が注目される機会が増加。同町りゅうがく館では4月から来年2月までの期間、特別企画展を開催している。
 特別企画展の開幕式で碇山和弘教育長は、「龍郷で生まれた西郷菊次郎にも光を当てていきたい。龍郷町から『敬天愛人』につながる親子の絆のメッセージを送る特別展にしていきたい」とあいさつした。企画展では限定公開として、菊次郎愛用のカバンが親族の協力を得て借り受けて展示されている。
 また拓殖大学が保有する菊次郎のパスポートや台北県支庁長等に任じられた際の辞令書など15点ほどが、同大から貸し出され10点を現在公開中。同町教委の川元美咲学芸員によると10月ごろに、資料の劣化を防ぐなどの目的で展示中の資料と、追加で借り受ける資料などを入れ替える予定としている。
◇   ◇
 西郷菊次郎の生涯と隆盛の人格の一端を著した元拓殖大学常務理事の佐野幸夫氏の『西郷菊次郎と台湾 父西郷隆盛の「敬天愛人」を活かした生涯』では、国際人としていかにあるべきか菊次郎の生涯から学ぶことができるとしている。
 菊次郎は2度の米国留学で英語は堪能だったが、外務省に入省する前に重野安繹から漢学を学んでいた。同書は、「語学が堪能であれば国際人であるという安易な見方に対する警鐘となろう。国際人を目指す若者にとり菊次郎は良き範例となろう」と、国際人について改めて考える必要があるとしている。

日本のレンガ史のルーツ

瀬戸内町久慈の水溜跡を見学する生徒たち
取水口からの水を濾して不純物を除去し水溜に送るろ水池跡

 奄美大島の白糖工場建設を指導したアイルランド人技師のウォートルスは、4カ所の白糖工場が廃止されてから明治政府のお抱え外国人技師として活躍する。1870年(明治3年)に当時の大蔵省に雇用され、大蔵省の建物や大阪の造幣局の建設などに関与。75年には自身の最高傑作といわれた東京銀座レンガ街を手掛けている。このウォートルスの伝えたレンガ製造技術による国産レンガが、奄美大島のレンガ造り建築に用いられた可能性がある。瀬戸内町久慈の水溜跡がそれにあたる。
 久慈水溜跡は旧日本海軍が建設したもので、「佐世保海軍軍需部大島支庫跡」の名称で呼ばれることも。瀬戸内町が遺跡の分布調査事業や近代遺跡の内容確認調査を実施している。
 久慈は幕末に薩摩藩が白糖工場を、幕府の目を逃れて建設した地の一つ。同町教育委員会埋蔵文化財担当の鼎丈太郎学芸員は、「波静かな地形や水の便などを把握していた薩摩藩出身の幹部がいた海軍が、軍艦などの補給地として注目し軍事施設を建設したのでないか」と推察する。
◇   ◇
 まず水溜に先行して1891年(明治24)、久慈の海岸部に石炭庫を建設。なお、石炭庫は奄美群島に初めて建設された軍事施設だという。
 94年に日清戦争が起こり翌年に台湾が日本領となると、久慈の軍事関連施設の建設が促進される。95年に現存する赤レンガ構造の水溜と桟橋の建設が開始された。
 97年に久慈湾が要港に内定し、久慈に電信本局を設置。こうしたことから同地は、台湾航路を維持する重要な地域であったことが分かる。
 その後、石炭庫は軍艦の燃料が石油に代わったことにより1934年(昭和9)に使用廃止され売却処分。水溜などは太平洋戦争中も使用され続け、45年3月には特攻兵器の震洋隊が久慈に配備されていた。
◇   ◇
 今年2月にあった現場公開で鼎さんは、「水溜跡の高さは約4・5㍍。レンガの積み方はオランダ積みで、ウォートルスの技術に似ている」と解説。同町教委は水溜跡や、関連する取水口やろ水池に使われているレンガについて、当時のレンガを研究している岸和田市教育委員会の山岡邦章文化財担当長を招き現地指導を受けた。
 山岡さんは白糖工場跡から出土したレンガと、水溜に使用されているレンガを調査。その結果、「ウォートルスが日本人の手のサイズに合うよう改良したものが薩摩から堺、岸和田などに伝播して量産したレンガが使われているのでないか」「取水口、ろ水池、水溜の順に建設されたのでないか」などと考察している。
 山岡さんは「日本のレンガ史のルーツは久慈。すごいものがあるので多くの人に知ってもらいたい」と久慈のレンガ造り建築を評価する。戦前の奄美大島(特に瀬戸内町)の要塞化に伴い、軍事施設として使用されてきた水溜だが近代化という側面で考えさせられる近代遺跡だろう。
 同町教委の鼎さんは、職場体験学習で来た古仁屋高生たちを水溜などの戦跡に案内。生徒たちからは、「普段見られないものが見られた」「自分たちの住んでいる町のことが知れた」などの感想が聞かれたという。

〝白いダイヤモンド〟生産の名残

須古白糖工場の跡地とされる畑地と凝灰岩切石(手前)
民家の塀に転用されている「白糖石」

 奄美大島に西洋の技術を導入し白糖工場を建設、「高品質な白糖(白いダイヤモンド)」を生産して薩摩藩の財政に寄与させる一連のプロジェクトは長続きせず終了した。発掘調査が行われたのは瀬戸内町久慈の白糖工場跡のみで、その他の工場跡では工場に使われていた赤レンガなどが資料として、各市町村の博物館や文化財展示室に保管されている。他の3カ所の白糖工場の跡地を紹介する。
 金久白糖工場は奄美市名瀬の矢之脇町付近に建設された。敷地は大規模で4カ所の工場の中心として、1868年まで3年間操業したと伝わる。
 建物の規模は不明だが煙突が2本あり、1本は蒸気機関用であった。近くの井根川や腰又川からの水を貯水して、工業用水を確保していたという。
 工場が廃止されると、建設資材として使われていた凝灰岩切石は民家や、会社倉庫、名瀬小学校の塀などに転用。耐火レンガや赤レンガは、奄美博物館に当時を伝える資料として展示されている。
 金久の工場の近くには、建築・機械技師ウォートルスと白糖製造技師のマッキンタイラーが住む洋館が建てられ、そこから4カ所の工場の技術指導を行っていた。2人が住む洋館では料理人や家政婦が雇われ、ウォートルスは塩浜町出身の家政婦「ましゅ」とは恋仲になり二人の別れは、名瀬に伝わる島唄の歌詞に歌われている。
 歌詞を引用すると「沖走りゅりオートロス(ウォートロス)船や 煙まきゃまきゃ沖走りゅり 袖しぶり塩浜ましゅや うり見ち袖しぶり」。この歌詞は「くるだんど節」の曲に乗せて歌われるという。
◇   ◇
 龍郷町瀬留の白糖工場は、『文化財が語るふるさとの歴史 龍郷町の文化財ガイドブック』(発行・龍郷町教育委員会)によると、「キカイ」と呼ばれる旧役場が建てられていた向かいの敷地にあったと言われている。『慶応年間 大島郡における白糖の製造』では、建設時期は1866年(慶応2)で正確な時期は不明だが白糖製造は1年で中止されたとしている。
 工場に使われていた赤レンガや耐火レンガは一部が残っていて、現在は同町の生涯学習センターりゅうがく館の文化財展示室で一般公開されている。他の工場跡では学校や民家の塀などに転用されている「白糖石」と呼ばれる凝灰岩切石は、同集落ではまだ発見されていないという。
 金久工場の跡地はアスファルト道路に覆われているが、瀬留工場の跡地は空き地にあると推測されていて今後の発掘調査が期待される。
◇   ◇
 宇検村須古の白糖工場跡を、同村教育委員会の渡聡子学芸員の案内で見て回った。久慈や金久、瀬留と同様に海のそばに立地し、付近には工業用水に利用したとされる河川が流れている。
 工場の規模は、間口約54㍍、奥行き約18㍍の平屋建てで、レンガづくりの高さ約30㍍の煙突1本が備わっていたとされる。
 工場が廃止されると、白糖を精製する機械は売却されて、建物や煙突に使われていたレンガや石材は住民などに払い下げられ建築資材として再利用された。
 渡さんに須古集落内で民家に使われている様子を見せてもらった。ある家では3~4段ほど横積みして塀に利用し、別の家では軒下の敷石に転用されていた。
 同村の生涯学習センター元気が出る館では、須古から見つかった赤レンガや「COWEN」と銘の入った耐火レンガを確認した。渡さんは「発掘調査の前に、「(聞き取りを含め)分布調査の実施を考えている」と話した。

明治維新150年 素晴らしいもの奄美にも

久慈の白糖工場跡の現地公開に参加した田中部長(右から3人目)

水溜の現地説明会でレンガを見学する田中部長(右)

 これまで奄美大島の幕末・明治期の近代化遺産などを5回にわたり紹介してきた。各市町村の文化財担当者に協力いただいたが、十分に各地の近代化遺産の魅力を伝えられたかどうか不安なところだ。まとめとして県大島支庁総務企画部の田中完部長に、白糖工場跡の意義などを聞いた。
 田中部長は、県庁で10年近く「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録に関する取り組みを担当した経歴があり、2017年4月から奄美大島に赴任した。
 田中部長は群島各地を巡りながら、感じたことや奄美の魅力などを県内外に発信し続けている。奄美大島の白糖工場跡にも関心が高く、県立埋蔵文化財センターが実施した現地公開などにも積極的に参加してきた。
  ◇    ◇  
 4カ所の白糖工場跡について、同時代に薩摩藩本土では現在の鹿児島市磯に1865年に集成館機械工場、67年に鹿児島紡績所技師館が建設されて、頓挫していた集成館事業は再興されている。「同時期に奄美では(白糖)洋式工場が作られている。時代性が注目点で、65年には貿易商グラバーも奄美にも来ていた」。
 田中部長は「明治維新150年は本土だけでなく、奄美大島にもすばらしいものがあることを知ってもらえれば」と指摘した。奄美の近代化遺産の今後について、四つの切り口を提案する。
 白糖工場跡の活用について、▽本質的研究の進展(発掘は久慈以外は未実施)▽観光との連携で地域を見せる(博物館などにレクチャーしてもらう)▽地域の人との関わり(地域の人が地域を知るきっかけづくり)▽子どもたちに楽しんでもらう体験メニュー(柔軟な発想をして意識づける)―などを訴えた。
 この中で第一とするのは、本質的研究の進展を挙げる。研究進展を樹木の幹に例えて、「幹が太くならないと、(活用する)枝葉は広がらず、いずれ枯れてしまうだろう」。
 観光との連携では、白糖工場跡から近隣の旧所・名勝地などに観光客を波及させることを提案する。「そのためには、地元の人が地域を知らないといけない」として、「市町村の学芸員や県の埋文センターに学ぶフィールドを作ってもらいたい」と話した。
 次世代を担う子どもたちに対しては、「副読本、演劇、創作活動を行ってはどうか」とアイデアを披露した。一般対象としては、工場所在地の4市町村が広域連携して学術シンポジウムを実施して、レンガ技術が伝播した岸和田市などとの都市間交流にも言及した。
  ◇    ◇  
 田中部長は4カ所の白糖工場跡をセットでアピールできないか考え、関係市町村の担当者と話を始めているという。多くの人に訪れてもらうために、「白糖工場跡だけに固執せず、新たな視点で考えてもらうように、いろいろな切り口で多様な取り組みが必要だろう」と説明する。
 また地域振興の視点から白糖工場跡を、奄美博物館長などを務めた考古学者の故・中山清美さんが提唱した「奄美遺産」を引き合いにして肯定している。「白糖工場跡は、奄美遺産の先鋭的存在になってもらいたい。これを生かした地域活用が実現できればと考える」。
 奄美遺産は、奄美の人々が畏れ敬い守り残して伝えていきたいものを、自分たちの遺産としてふるさとの価値を自ら見出し活用していくこととされている。一言でいえば「島の宝」になるだろうか。自然だけでなく先人が残してきた伝統文化や、足元の価値を見直す必要があるだろう。  (松村智行)
=おわり=