宇検村で対馬丸慰霊祭

宇検村で対馬丸慰霊祭

慰霊碑に献花する沖縄県子ども生活福祉部・日野徹参事(右)と浦添中・宮城蓮華さん

沖縄からの参列者などが見守る中、献花した久志小学校の児童ら

事件語り継ぎ平和誓う
沖縄の親子連れも参列

対馬丸慰霊祭実行委員会(委員長・津田正廣宇検区長)は25日、宇検村同集落の船越=ふのし=海岸の対馬丸慰霊碑前で2019年度第3回対馬丸慰霊祭を行った。村当局や集落住民などが参加し、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂を祈り平和の誓いを新たにした。23日から平和学習交流会に参加している沖縄の児童生徒や保護者なども参列。式典で慰霊碑が戦争の悲惨さを伝え、平和学習の場として活用していく決意などが述べられた。

1944年8月22日、沖縄から九州へ疎開するため長崎を目指していた学童疎開船の対馬丸は、悪石島付近で米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈。同海岸には遭難者や遺体が多数漂着し、住民たちが生存者の救助活動や、犠牲者の埋葬作業を行っていた。

慰霊碑は集落などが要望して、17年3月に同地に建立。同8月に慰霊祭を行い、同11月には奄美沖縄キックオフ交流事業で奄美入りしていた沖縄県の当時知事だった故翁長雄志氏が現地訪問し、村や集落に感謝して献花していた。

慰霊祭は昨年も開かれ、翁長氏が呼び掛けた沖縄県と宇検村の小中学生の平和学習交流事業も開始された。今年の平和学習交流事業には、沖縄県の小中学生16人と保護者14人が参加。この日の慰霊祭に同県関係者7人と合わせ、37人が参列し犠牲者の鎮魂などを祈った。

慰霊祭は約70人の参列者が、慰霊碑越しに事件の発生した悪石島方向に向いて黙とう。津田区長は、「一昨年に慰霊碑が建立され、慰霊祭が開催でき、当時の翁長雄志知事に献花していただくなど慰霊碑の意義を実感した。これからの社会を背負って立つ子どもたちに、命の尊さと平和の大切さを語り継いでいく」などとあいさつした。

追悼のことばで元山公知村長は、「先日の那覇市若狭・小桜の塔であった対馬丸慰霊祭に参加し手を合わせて来た。沖縄県との平和学習交流事業も始まっている。二度と同じような悲しみ繰り返さないためにも、慰霊碑を多くの人が訪れ、平和の尊さを発信し続けることを願う」と述べた。

沖縄県側から県子ども生活福祉部の日野徹参事と浦添中2年の宮城蓮華さん(14)が代表で慰霊碑に献花。続いて元山村長や松井富彦副村長、村野巳代治教育長などが献花して手を合わせた。また慰霊祭に参加した久志小学校の児童も献花を行った。

宮城さんは、平和学習交流事業に母親と2人で参加。「対馬丸事件は、今の時代では考えられない悲惨なこと。事件の犠牲者を埋葬し、生存者を助けてくれて感謝している。こんな穏やかな場所で、悲しいことがあったと信じられない」などと話した。

 対馬丸事件

太平洋戦争中の1944年8月22日、長崎を目指し沖縄から出航した学童疎開船対馬丸(乗船者約1800人)が、トカラ列島の悪石島の北西約10㌔の海上で米軍潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃で撃沈され、約1500人(学童784人含む)が犠牲となった。

当時日本軍は統治していたサイパンを米軍に占領され次は沖縄が戦場になると予想し、政府は沖縄や奄美から約10万人を九州や台湾に疎開することを決定した。学童疎開と呼ばれ、海を越えての疎開は制海権を失いつつある状況に不安視する保護者もいたという。

魚雷攻撃を受けたのが午後10時12分ごろで、多くの子どもたちが寝ていて船は10分足らずで沈没。乗船者は突然夜の海に放り出され、真っ暗な中イカダや浮いている物につかまりながら救助を待った。

付近を漂流する生存者は漁船に救助されたり、奄美大島などに流れ着いて助けられた人も。事件の生存者は軍により、かん口令が敷かれて戦争が終わるまで事件のことは話すことを禁じられた。

また犠牲者の遺体は、住民などにより手厚く埋葬された。宇検村では戦後、船越海岸に埋葬された犠牲者の遺骨105体が、遺族により持ち帰られて改葬された。