磨製石鏃製作跡は県内初

パネルディスカッションで「下原洞穴遺跡」関連の重要性などを解説した専門家たち=12日、天城町


「下原洞穴遺跡」見学者ら資料写真(円内は出土品)

「空白の1万年の痕跡」
旧石器人骨にも期待
国史跡化へ 下原洞穴遺跡シンポ 天城町

 【徳之島】天城町と同町教育委員会主催の「下原(したばる)洞穴遺跡シンポジウム~空白の一万年の痕跡~」が12日、同町防災センターであった。奄美群島最古の約1万3千年前の「隆起線文土器」の発見で群島土器文化の歴史を覆すなど注目を集める重要遺跡。考古・人類学など専門家の報告を交え、琉球列島の人類の起源を探る旧石器時代の人骨の出土など調査の深化にも期待。国史跡指定へ理解を広げる大きな第一歩とした。

 「下原洞穴遺跡」は同町西阿木名の海岸から約500㍍の段丘崖の麓、標高約90㍍に開口した洞穴遺跡。2016年に鹿児島女子短大の竹中正巳教授と天城町教委が合同で初めて発掘調査。学術的に極めて重要な遺跡と認識され、国宝重要文化財等保存整備費補助金を活用して現在6度の調査を実施中。

 特筆すべき成果に、これまで奄美群島最古の土器とされた南島爪型土器(約6千~7千年前)が出土した層の下層から「波状条線文土器」を発見。さらにその下層の約1万3千年前の地層から「隆起線文土器」が出土。群島の土器文化の起源が「空白だった1万年前(本土と同時期)にさかのぼる」可能性を確認。

 ほか、多くの磨製石鏃(せきぞく=矢じり)とともに同製作場も確認。旧石器時代(奄美・沖縄は約3万年前~約1万年前)の人類活動の可能性を含め、「群島の歴史を塗り替える可能性を秘めた稀有な遺跡」と熱い注目を集めつつある。

 初シンポには島内外から約130人が参加した。森田弘光町長あいさつや町教委の具志堅亮、中尾綾那の両学芸員概要報告を交え、▽形質人類学の土肥直美元琉球大学医学部准教授が「琉球列島に生きた人々」▽高宮広土・鹿児島大国際島嶼教育センター長が「何年も前から島に適応した人々」▽堂込秀人・鹿児島県上野原縄文の森園長が「土器と石器が語る交流の痕跡」と題し発表。

 土肥氏は「現代の琉球列島人は貝塚時代人(約7千年~1千年前)よりもずっと本土日本人に近い関係にあることが分かってきた。中世以降は周辺地域の人々との交流で混血して現代へ」。下原洞穴遺跡の約3千年前の人骨については「葬送の場」利用も示唆。1万7千年前の生活痕跡に次ぐ、2万5千年前の層について「私たちは下原洞穴で最初の徳之島人に出会えるもかも知れない。彼らは港川人や白保竿根田原人の謎を解く重要な鍵をにぎっている」。旧石器人骨の確認にも絶大な期待を寄せた。

 高宮氏は、アマミノクロウサギの骨が見つかった点も注目。「食料対象となって他の島だったら絶滅したと想像。この島の先史時代の人たちは自然と調和していた可能性も。世界的にも大変珍しく〝世界遺産〟に匹敵する」とも強調した。

 徳之島内の重要遺跡の調査に携わってきた考古学者の堂込氏は「磨製石鏃の製作跡が見つかったのは県内では初めて」。さらに「貝(鏃)から石(同)へ遺物の素材が変わることは縄文時代では時々あるが、これほど明確な遺跡はない」。種子島の立切遺跡・横峯遺跡は従来の旧石器文化のイメージを変えて「植物質食料にある程度依存した旧石器文化」とされている点も例示。「多様な環境に適応した人類・文化があったことを証明する可能性のある重要な遺跡だ」と強調した。

 引き続き熊本大名誉教授の甲元眞之氏をコーディネーターにパネルディスカッション。来場者たちの質問票に回答する形で解説。甲元氏は「国民の共有財産として遺跡を守って欲しい」と締めくくった。

 会場ロビーには同遺跡出土品の展示コーナーも設け、関心を集めた。