会長に初の奄美関係者

三州倶楽部入り口で笑顔の横田会長

歴史と格式持つ「三州倶楽部」
コロナ禍乗り越え奮闘

 島津家の当主を総裁に仰ぎ、歴史と格式を持つ公益社団法人「三州倶楽部」の会長に初めて奄美群島に縁のある人物が就任して、奮闘している。NPO法人徳之島「夢」振興会議の理事長・横田捷宏(かつひろ)さん(81)だ。

 父が伊仙町伊仙出身で大阪生まれ。戦後、祖父母が疎開していた宮崎県で小学校3年まで過ごし、関西へ。東京へ進学後(東京大学法学部卒)は、当時の通産省へ入省。その後、鹿児島県庁で企画部長など務めた。「九州新幹線誘致や離島振興で奄美に関わりいろんな方々と親交を深め、飛び回りました。上京して政治家たちとの情報交換も懐かしい」と横田さんは、古里と東京をつないだ奮闘ぶりを振り返る。ほか、さまざまな実績が評価され第17代の会長職に2020年の6月に就任した。

 だが「世の中、コロナ禍となり三州倶楽部も半休業に。雇用助成金を活用しながら、オンラインを導入して対応に追われました」とこの3年間を乗り越えてきたのだった。

 1914(大正3)年、桜島の大爆発を機に郷土愛が芽生えたことなどで18(同7)年に「明治維新を築いた先人に学び、故郷を支援しよう」を目的に創立された同倶楽部。「三州」とは薩摩、大隅、日向のこと。建物は品川区のJR目黒駅から徒歩数分。周りには高級住宅が立ち並ぶ都心の一等地に3階建ての威容を誇っている。会員は、鹿児島県選出の国会議員や県知事、商工会議所会頭ら政財界の重鎮を含み、23年4月現在447人。元総理の小泉純一郎氏も会員だ。鹿児島・宮崎の政財界から、両県出身者、各地の鹿児島県人会会長らが名を連ねている。同倶楽部はハワイ、ブラジルとも交流している。

 国際委員会や育英事業委員会などの報告、詩吟、ゴルフなど同好会の紹介、鹿児島、宮崎県の主な動きを載せる「三州倶楽部会報」を年4回発行、郷土学生と会員との懇談会、宮崎懇談会、鹿児島懇談会開催のほか、会館の貸し出しも行っている。初代会長は、樺山資紀伯爵海軍大将。奄美群島出身者も戦後名簿に載ったが、要職に就く者はいなかった。ちなみに3代会長は大久保利武氏、4代は西郷従徳氏が会長を務めている。

 また「同じ鹿児島でも、奄美群島は別だとの空気感がずっとあった」と話す関係者も少なくない。それが変わったのが、東京・足立区のほか千葉・柏、神奈川・川崎で葬儀会社を展開する日本典礼の宮地正治さんが20年前に同会で広報担当理事を務めてからだった。懇親会で同じテーブルについた際「薩摩でもないのに、薩摩の顔をしている」と聞こえる無言の声があったという。それらに「『今に見てろよ』と胸を張ってあいさつをし続け、奄美人としてバカにされないよう心掛けた」(宮地さん)。広報担当理事になった宮地さんの編集後記が、やがて話題となり「他県の人たちを中心に認められていったのです」と懐かしそうに語る。

 その後、前東京奄美会会長の大江修造さんも広報担当理事に。18(平成30)年には「三州倶楽部百周年記念誌」の発行責任者として奔走した。「奄美出身者に対して、同じ薩摩という議論はなかった。記念誌では、三州倶楽部では、かつて大臣まで決められたという重鎮による座談会を企画しました」という。昨年末奄美新聞で行った、小泉進次郎衆院議員と保岡宏武衆院議員の対談の際、小泉氏が「100周年記念の講演をさせていただいたが、そうそうたる会員を前に緊張した」と語っていたのが印象深い。

 ほかに、敬天愛人の会会長で徳之島出身の平山徳廣さんが評議員会の議長も務めるなど、奄美群島出身者が会の要となっているようだ。奄美関係者は現在約40人所属しており、奄美群島日本復帰70周年となる今、奄美関係者を抜きに、三州倶楽部は語ることはできない状況だ。

 格式高い同倶楽部だが、会員数の確保、会館の老朽化(71年竣工(しゅんこう))などの課題も抱える。横田会長は、こう言って目を細める。「先人の苦労あってこそ私は会長になれた。賛助会員を増やすこと、若い人を中心にした活性化等、やることは山のようにある。だが、シマッチュ魂で頑張ります。私は島で暮らしてはおりませんが、どこに行っても『伊仙町出身です』と堂々と胸を張って宣言しているのです」と。

(高田賢一)