出張「奄美寄席」 「一席いかが」

1月30日に行われる「奄美寄席」案内チラシ

母方の祖母が織った大島紬を着て高座にあがる笑福亭竹三さん=大晦日の千代田区神田「神田連雀亭」のきゃたぴら寄席で=

仕事帰りやランチタイムに、ちょっと落語を聴きに行こう「神田連雀亭」

真打昇進までに奄美のPRもしたい
両親が奄美出身 二ツ目 笑福亭竹三さん=しょうふくていちくざ=(29)

 【東京】大晦日の神田。恒例の年越し蕎麦を求めて老舗「かんだやぶそば」に行列ができる。その真向かいにある「神田連雀亭」で笑い納めをした。客席わずか38席という小さな「寄席」。落語と講談の二ツ目たちが稽古のために連日出演し、自主運営している小屋だ。ここで笑福亭竹三さんの高座を聴いた。竹三さんは両親が宇検村芦検と瀬戸内町の嘉鉄出身の奄美二世落語家だ。昨年、初の「奄美寄席」を段取りしたのは二ツ目三笑亭可女次さんの兄。マグロの研究で宇検村に住んでいたことから話が進み、可女次さんと竹三さんが杯を重ねた際に「両親が奄美出身」と知った可女次さんが「奄美寄席」に誘う粋な計らいをした。その縁で今年も1月30日と31日の両日、宇検村と奄美市で「奄美寄席」を予定している。「里帰り」公演を前に竹三さんに真打への夢、奄美への思いを聞いた。
(永二 優子)

両親の大反対押し切って
 鶴光さんに入門

二番手で登場した竹三さんのネタは、笑福亭鶴光師匠に入門して初めて覚えた「手紙無筆」(文字が読めない二人がやりとりする人間の見栄を題材にした話)。母方の祖母が織ったという西郷柄の大島紬を着て、扇子と手ぬぐい、小拍子(小さな拍子木)を小道具に軽妙な語り口で高座を務めた。鶴光師匠よろしく釈台をたたく姿がキマっている。

竹三さんが落語を始めたのは、5年前。滋賀県の守山市の高校を卒業して就職した会社は、東京・中野区にあるテレビのアニメ制作プロダクション会社で最大手の「トムスエンターテインメント」だった。「アンパンマン」や「ルパン三世」「アタック№1」などを製作してきた名門。ところが、ある時、製作予定だった番組が頓挫してしまうハプニングがあり、一時的に「社内失業」状態に。毎日タイムカードを押してから、「さて、何しようか?」。適当な暇つぶしも思い浮かばず、仕方なく釣りに行ったりもしていたが、「充実感ゼロ。ちっとも楽しくない」日々が続いた。

暇を持て余し、YOUTUBEの動画再生で関西の漫才をちょくちょく見ていた。すると、ある日、漫才の中にポンと落語が入ってきた。「落語って1人で長くしゃべっているだけや、おもろないから興味もてへん」と、ずっと思っていた。当然すっ飛ばすところだったが、「あまりにもヒマだった」ため、「しゃあない、いっぺん見てみたろか」。それが笑福亭鶴光の「木津の勘助」(大阪の大飢饉を救う人情話)だった。しばらくすると、目も耳も釘付けになっていた。魅入られたように、どっぷりとはまり込んでしまっていたのだ。「落語って、こんなにおもろいのか、なら本物みてみたろ」と、新宿末広亭などへ足を運んだ。そのうち、「おもろい! すごい! うう~、やってみた~い!」と、落語家への思いは熱くたぎる一方となった。

番組制作の仕事は、始まると最低1クール3か月は缶詰め状態となり、自分の時間はほとんど持てない。幸か不幸か、その仕事が今はない。「チャンスだ! 今しかない!」と思った竹三さん。新宿末広亭で笑福亭鶴光師匠の出待ち(楽屋出入り口で会うために待つこと)を続けた。落語の興業は普通10日間、上・中・下席で行われる。マナジリ決して初日から出待ちを待ち続けたが、運命のいたずらですれ違いが続いたのか「全然出てこない…」。恋い焦がれる相手に振られ続けて7日も8日も過ぎていった。もう2、3日しかない…。

「おかしい、この小屋の中に住んどんのか?」。梅雨入りした6月のある日、竹三さんは師匠の落語を聞きたい気持ちを封印して客席には入らず、ずっと楽屋口で傘をさして待っていた。すると、なんのことはない、高座が終わった師匠がすぐに出てきた。

「師匠、弟子入りしたいんです」。あっさり断られると思っていたが、意外にも師匠は即座に「わかった、連絡先は」と応えてくれた。竹三さんは用意していた名刺をポケットから出して手渡した。「めっちゃ手が震えて、我ながらおかしかったですわ」。名刺の裏には携帯電話の番号を書いておいた。受け取った鶴光師匠は「弟子に連絡させるから」と告げ、何事もなかったかのように帰っていった。

翌日、兄弟子の里光=りこう=さんから連絡があり、会ってもらえることに。「大変やぞ。楽しいことなんてひとつもあらへん。それどころか食ってもいけん商売や。それわかって会社やめんのか? やめへんほうがいいぞ、ごっつう後悔するぞ」。兄弟子は何度も、ほとんど「おどすように」、竹三ではなく本名の森岡誠に言った。本人の決意のほどを探っていたのだろう。「すべて覚悟の上です。どうしてもやってみたいんです。どうぞお願いいたします」と、竹三はひたすら頭を下げ続けた。
 両親は「せっかく大きな会社に入ったのに、食っていけるかどうかもわからん道に進むなんて冗談じゃない。あかん、会社辞めたら絶対にあかんぞ」と大反対。しかし、決意の固かった竹三さんは聞く耳持たず、「とっとと辞めて入門しちゃいました」。

修行は言葉では表せないほど大変だったはずだが、本人は笑顔を浮かべて「いやあ、師匠に出すお茶の入れ方がこんなに難しいとは思いませんでした。まあ、でも、4年ほどは着物に慣れる時間でしたから…。大丈夫、この世界を楽しんでいますよ」と、まったく屈託がない。大反対していた両親も心から応援してくれるようになったという。

昨年、女の子が誕生した。生活はまだ安定していないが、表情はどこまでも明るい。「これからは落語だけでなく、即興芝居なんかにも積極的に挑戦していこうと思うとります」と、意欲は満々だ。落語での奄美入りは二度目。「父母の故郷であり、私も大好きな奄美で公演ができるのは本当に幸せです。一人でも多くの方に聴いていただきたいと、いまからワクワクする思いです」と、竹三さん。真打めざして成長していく二ツ目落語家の高座を、ぜひ奄美で。出囃子は明るいラップ調のラバウル小唄、ですよ。