「明治維新カギは奄美の黒糖」

薩摩藩の財政や明治維新は、奄美の黒糖抜きには語れない歴史であったことを説明する大江さん。参加者は大きな関心を寄せていた

田畑佐文仁祖先に持つ大江さん講演
東京・三州郷土館で歴史支えた新たな視点示す

 【東京】(公財)奄美奨学会理事長で東京理科大学教授、日本開発工学会会長の大江修造さんが2日夕、三州郷土館(品川区上大崎1)で「奄美の黒糖と明治維新に至る薩摩藩の財政」をテーマに講演を行った。倒幕から明治維新へと続く激動の時代に、薩摩藩の財政を支えた要が奄美の黒糖であったことをひも解き、来場者の関心を集めていた。

 講演研修会は、1918年に創設された三州(薩摩、大隅、日向)の出身者や縁故者などで組織する(公社)三州倶楽部の主催。同倶楽部は、三州の伝統、文化先人の事績、史実を調査・研究・広報し、諸団体と連携して郷土や地域社会の発展に寄与することを目的に活動しており、研修活動も活発に行っている。今回は大江さんを講師に、明治維新を成しえた薩摩藩の財政に焦点をあて、知られざる歴史を講義。会場は約50人の参加者で満席となった。

 自己紹介などに続き、大江さんは薩摩藩が琉球を征服して奄美を統治下に置いた時代について説明。藩が苦しい財政の中で目をつけたのが島で生産される黒糖だったとし、耕地が少ない奄美では厳しいサトウキビ政策の中でじり貧の生活を強いられた史実を紹介した。

 大江さんの祖先には奄美の海、山を開墾した田畑佐文仁がいるが、この佐文仁が当時の最先端の土木技術を学んで奄美に持ち帰り、山を拓き海を埋め、名瀬、龍郷、笠利、住用に5百㌶の土地をもたらした。これが、島民の暮らしを救ったと同時に、サトウキビの増産へとつながったという。

 海外からの船が日本の脅威となりつつあった時代、英国人が島津久光の大名行列に乱入したことで起きた生麦事件は、その後、薩英戦争の勃発へとつながっていくが、この頃、黒糖の価格は急速に高騰。幕末の1851年から17年間で生産量が倍増していた奄美の黒糖は、薩摩藩の財源の5割以上、人によっては8割に達したとも言われている。薩英戦争の際、大砲や弾薬を製造する軍需工場を運営したり戦争時の軍艦の配備などによって勝利したが、それは黒糖による財があったためだったと説明した。

 英国はその後、薩摩藩と組んで倒幕へと方針を変更、明治維新へと時代は変わっていく。

 様々な文献や資料から、奄美の黒糖が歴史に果たした役割について解説した大江さんは「明治維新は名君と偉人とで成されたことは事実。しかし『モノ・カネ』抜きで真実はわからない。奄美の黒糖が無ければ明治維新は成立しえなかったことを是非理解してほしい」とまとめ。耕地の少ない奄美で黒糖が苦難を伴い生産されてきたこと、その黒糖が表舞台の歴史を支えていたという新たな視点を示した。

 参加者からは「知らないことが多く参考になった」と感想。大江さんは「この知られていない奄美の歴史を、メディアや様々なツールを通して広めたい。2年後の明治維新150周年にもつなげられたら」と語り「最終的には歴史の教科書で『明治維新に黒糖が重要な役割を果たした』という一文を載せることができたら」と笑顔で期待を寄せた。